インシュリン・糖代謝による動物の日常行動の制御 -糖尿病における行動のリズム異常のメカニズム解明に期待-

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理化学研究所(理研)開拓研究本部佐甲細胞情報研究室の荒田幸信専任研究員、佐甲靖志主任研究員らの共同研究グループは、動物の行動リズムを決める普遍的な法則である「フラクタルスケーリング[1]」がインシュリン[2]信号伝達系によって制御されていることを発見しました。

 

本研究成果は、ヒトの糖尿病に併発するうつ病、双極性障害、不安障害に伴う日常行動のリズム異常のメカニズムの解明や、糖尿病の新しい診断・治療法の開発に貢献すると期待できます。

 

今回、共同研究グループは、線虫(C. elegans)[3]の行動を3日間ビデオ撮影することで、動物の日常的な行動の背後にあるフラクタルスケーリングが、栄養条件によってどのように変化するのかを解析しました。さらに、インシュリン信号伝達系に遺伝子異常を持つ線虫の変異体を解析し、フラクタルスケーリングがインシュリン信号伝達系の制御下にあることを証明しました。

 

本研究は、オンライン科学雑誌『Scientific Reports』(6月21日付)に掲載されました。

線虫の行動に現れるフラクタルスケーリングとその変化

背景

ヒトを含む動物の日常の行動は、時に気まぐれで場当たり的に思えます。しかし、2005年に米国ノートルダム大学のAlbert-Laszlo Barabasi教授は、日常の行動だけでなく仕事やコミュニケーションのような社会行動を含めて、ヒトの行動は偶然の法則ではなく「フラクタルスケーリング」[1]に支配されることを報告しました注1)。行動がフラクタルスケーリングに支配されるとは、代表的なフラクタル図形であるコッホ曲線[1]に見られるように、例えば数日の活動時系列パターンを次々に拡大して数時間、数分、数秒の活動時系列パターンを見てもその形が相似形になっていることを意味します。このことは、我々の脳の中には、異なる時間スケールに現れる全く違った行動を支配する共通のメカニズムがあることを示唆します。Barabasi教授の研究をランドマークとして、行動のフラクタルスケーリングが広く動物界に保存された普遍的な法則であること、およびヒトの老化やさまざまな神経疾患により変化することが明らかになりました。

一方、2003年に米国精神保健研究所のJohn M. Beggs教授らは、脳内の近接する神経細胞群が連続的に活性化する活動パターンにもフラクタルスケーリングが現れることを報告しました注2)。これまでに、脳臨界点仮説[4]やカオスの縁に関する理論[4]、注3)に基づいたシミュレーションによって、脳活動のフラクタルスケーリングが神経細胞の集団挙動の特徴であることが明らかになっています。これらのシミュレーション研究によって、神経細胞の活動と脳活動をつなぐ理論的枠組みが得られました。次の重要な課題は、脳活動と動物の行動を整合的に結び付ける分子レベルの知見を得ることでした。この知見を得るならば、神経細胞1個の活動特性から動物の行動特性を統合的に理解する枠組みを得ることになります。共同研究グループは、特定の遺伝子の機能を破壊した変異体において動物の行動のフラクタルスケーリングを解析することでこの問題に取り組みました。

注1)Albert-László Barabási. The origin of bursts and heavy tails in human dynamics. Nature (2005) May 12;435(7039):207-11.

注2)John M Beggs, Dietmar Plenz. Neuronal avalanches in neocortical circuits. J Neurosci. (2003) Dec 3;23(35):11167-77.

注3)2020年7月8日プレスリリース「二つの臨界現象をつなぐ

研究手法と成果

共同研究グループは、マイクロ流体デバイス[5]技術を用いて、直径2mmのディスク状の培養槽が50個程度並列した集積培養槽を作製しました。この集積培養槽によって、微小培養槽それぞれに1匹ずつ線虫(C. elegans)を閉じ込め、個体同士の生化学的な相互作用を完全に遮断し、多数の線虫を顕微鏡視野内にとどめることで、その活動を長時間ビデオ撮影できるようになりました。

微小培養槽内の1)栄養条件は培養槽内の溶液を一定速度で灌流し続けることで、2)温度は恒温水槽の水を金属ブロックの中に通す装置を開発することで、3)明るさは顕微鏡ごと覆うシールドを作製することで、それぞれ一定に保つことにより、線虫の内発的な行動の変化を観察できるようになりました。

3日間にわたるビデオ撮影で得られた動画データの保存には、線虫の活動評価に影響を与えないように最新の画像圧縮技術を最適化して用いました。画像解析プログラムを用いて長大な動画を解析することで、10万時点の活動時系列データを取得しました。時系列データに現れるフラクタルスケーリングの評価には、最新のDMA法[6]を用いました。

行動のフラクタルスケーリングの特徴を、a)緩衝溶液だけ、b)餌の大腸菌を加えた緩衝溶液、c)砂糖水を加えた緩衝溶液で線虫を培養した場合で比べたところ、活動期の長さの出現頻度分布の形状が、栄養があるとき、特に砂糖水で培養したときに変化することを突き止めました(図1)。フラクタルスケーリングの特徴が、糖の有無に影響を受けたことから、「フラクタルスケーリングはインシュリン信号伝達系と関係がある」と仮説を立てました。

図1 線虫の行動に現れるフラクタルスケーリングとその変化

縦軸は活動期・休止期の出現頻度を、横軸は時間を、いずれも対数スケールで示している。上段左の飢餓状態の活動期の分布形状は、両対数グラフにおいて直線になる「べき分布」と呼ばれる特徴的な形状を示した。この分布形状は、線虫の行動がフラクタルスケーリングに支配されていることの証拠である。上段中と右のように、餌(大腸菌)や砂糖水を供給すると、活動期のべき分布の尾が飢餓状態のときに比べて下がった。これらの結果から、栄養、特に糖によってフラクタルスケーリングが変化することが分かった(青矢印)。休止期の分布は、餌や砂糖水に影響を受けずフラクタルスケーリングに従った(下段)。

 

この仮説を検証するために、インシュリン信号伝達系の遺伝子を破壊した2種類の線虫変異体の行動を調べました。すると、インシュリン信号伝達の機能が低下した線虫では、活動期の長さの出現頻度分布の特徴が糖を供給した場合とは逆の変化を示すことが分かりました(図2)。この結果から、行動のフラクタルスケーリングがインシュリン信号伝達系の制御下にあると結論しました。以上の実験から、ヒトを含めた動物の行動の普遍的な法則であるフラクタルスケーリングが、線虫においてインシュリン信号伝達系によって制御されることが明らかになりました。

図2 線虫変異体の行動に現れるフラクタルスケーリングとその変化

インシュリン信号伝達系の遺伝子に変異がある変異体2種類(a:インシュリン受容体遺伝子の変異体、b:インシュリン信号伝達系転写因子遺伝子の変異体)では、べき分布の尾がせり上がり、糖の供給によって見られる変化とは逆の変化が観察された(上段のピンク矢印)。休止期の分布は、インシュリン信号伝達系に影響を受けずフラクタルスケーリングに従った(下段)。

今後の期待

動物の行動のフラクタルスケーリングは、さまざまな動物種に見られる普遍的な法則です。また、インシュリン信号伝達系遺伝子はヒトにも保存されています。さらに、線虫で見つかった活動期と休止期の長さの出現頻度分布と同様の分布がヒトの行動にも現れることが報告されています。分布形状が同じということは、背後にあるメカニズムが共通であることを示唆します。これらの状況証拠から、ヒトの行動に現れるフラクタルスケーリングにも線虫と同様に、インシュリン信号伝達系が関与している可能性があります。

ヒトにおいてインシュリンは、気分と報酬を制御する脳の領域(扁桃体)で神経ペプチドとして機能し、γ-アミノ酪酸(GABA)抑制神経細胞を活性化することが知られています。さらに、インシュリン信号伝達系の異常が原因の糖尿病の患者には、うつ病、双極性障害、不安障害といった精神疾患が併発することが知られています。これらの気分障害では、睡眠、食事、社会活動などの時間スケールが異なる生活リズムに異常が現れます。これらの報告と我々の発見を合わせると、糖尿病の患者に見られる行動リズム異常はインシュリン信号伝達系の異常により脳の神経活動のフラクタルスケーリングが異常になった結果引き起こされる可能性が考えられます。今回開発した行動のフラクタル解析手法をヒトの行動の解析に適用することで、糖尿病患者のさまざまな行動異常を統合的に解析することができます。このような試みは、より効果的な診断と治療法の開発につながる可能性を秘めています。

補足説明

1.フラクタルスケーリング、コッホ曲線

フラクタルスケーリングは、研究対象とする図形を拡大または縮小(スケーリング)するたびに全体像と相似な形状が現れる現象、またはこのような繰り返し入れ子構造を生成する法則のこと。動物の行動パターンにおけるフラクタルスケーリングは、動物の活動を記録した1次元データを連続的に拡大したときに相似形が現れることを意味している。フラクタルスケーリングはヒトの神経や血管の分岐パターン、海岸線、山や雲の形状など、自然界に普遍的に見られる。下図は、代表的なフラクタル図形であるコッホ曲線。図のようにフラクタル図形では、一部(灰色四角内)を拡大しても、同じ(または似た)図形が現れる。

2.インシュリン

インシュリンは末梢血中の糖濃度の制御だけでなく、神経ペプチドとして脳で機能することが知られている。特に、脳の扁桃体において、GABA抑制神経を活性化する神経ペプチドとして機能することが知られている。

3.線虫(C. elegans)

1mm程度のイトミミズのような無脊椎動物。神経系、消化系、筋肉系、生殖系の四つの動物の基本的な器官を持つ。体にある全ての神経細胞とその結合が明らかになっているため、神経機能と行動の関係を研究するためのモデル生物として利用されている。

4.脳臨界点仮説、カオスの縁に関する理論

脳臨界点仮説(Brain Criticality hypothesis)は、脳の神経ネットワークが、一つの神経細胞の興奮が他の神経細胞に全く影響を与えられないほど弱く結合した状態と、一つの神経細胞の興奮が全ての神経細胞の興奮を惹起してしまうほど強く結合した状態の臨界点(Critical point)で機能しているという仮説。一方、カオスの縁に関する理論は、脳の神経ネットワークが、完全に決定論的に振る舞う状態と完全にランダムになるカオス状態の間、つまりカオスの縁(Edge of chaos)で機能しているという仮説に基づく力学系理論。これらの仮説に基づいて神経ネットワークの振る舞いをシミュレーションすると、一過的に興奮するだけの神経細胞の集団、つまり脳の活動にフラクタルスケーリングが現れる。このようにシミュレーションを使って、要素が集まったときに要素の振る舞いとは全く異なる振る舞いが現れる現象を再現することにより、要素(神経)の振る舞いとシステム(脳)の振る舞いを統合的に理解することができる。

5.マイクロ流体デバイス

ガラスやシリコーンゴムを材料とした微細加工技術によりサブマイクロメートルからミリメートルの微細な流路構造を有するチップのこと。ライフサイエンス分野だけでなく、化学・工学分野で広く使われている。

6.DMA法

フラクタル解析法の一つ。フラクタルスケーリングが見られるパターンにどのような相似性があるかを評価する。DMAはDetrended moving averageの略。

共同研究グループ

理化学研究所 開拓研究本部 佐甲細胞情報研究室

専任研究員 荒田 幸信(あらた ゆきのぶ)

客員研究員 ペテル・ユリツァ(Peter Jurica)

主任研究員 佐甲 靖志(さこう やすし)

 

大阪大学大学院 基礎工学研究科 機能創成専攻 生体工学領域

生体物理データ科学グループ

大学院生 志賀 樹(しが いつき)

教授 清野 健(きよの けん)

 

東海大学 工学部機械工学科 バイオマイクロ流体システム研究室

大学院生 池田 優作(いけだ ゆうさく)

准教授 木村 啓志(きむら ひろし)

研究支援

本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業挑戦的研究(開拓)「動物活動の定量計測と非線形時系列解析による、老化を支配する力学系システムの解明(研究代表者:荒田幸信)」による支援、および理研光量子工学研究センター技術基盤支援チームによる技術支援を受けて行われました。

原論文情報

Yukinobu Arata, Itsuki Shiga, Yusaku Ikeda, Peter Jurica, Hiroshi Kimura, Ken Kiyono, and Yasushi Sako, "Insulin signaling shapes fractal scaling of C. elegans behavior", Scientific Reports, 10.1038/s41598-022-13022-6

発表者

理化学研究所

開拓研究本部 佐甲細胞情報研究室

専任研究員 荒田 幸信(あらた ゆきのぶ)

主任研究員 佐甲 靖志(さこう やすし)

詳細▶︎https://www.riken.jp/press/2022/20220627_2/index.html

注)プレスリリースで紹介している論文の多くは、単に論文による最新の実験や分析等の成果報告に過ぎません。論文で報告された新たな知見が社会へ実装されるには、多くの場合、さらに研究や実証を進める必要があります。最新の研究成果の利用に際しては、専門家の指導を受けるなど十分配慮するようにしてください。

インシュリン・糖代謝による動物の日常行動の制御 -糖尿病における行動のリズム異常のメカニズム解明に期待-

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