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アレルギーに理学療法を駆使して、立ち向かう【及川 文宏】

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第322回目のインタビューは日本アレルギーリハビリテーション研究会代表の理学療法士及川 文宏。アレルギー疾患はこの10年ほどで急増しており、厚生労働省によると国民の2人に1人が罹病していると推計されています。及川さんのご子息もそのうちの1人。理学療法士としてできることしては何か。悩み抜いた末に辿り着いた"アレルギーリハビリテーション"の理論を教えていただきました。

アレルギーに苦しむ次男の隣で

ー アレルギー分野に興味をもったキッカケを教えてください。

 

及川さん 次男が、アレルギーで苦しんでいたのがキッカケです。

 

生まれたのは、僕が理学療法士になって5年目の時で、生まれて直後から呼吸状態が安定せず、産婦人科から救急車で急性期病院に運ばれました。出産予定日よりも、40日くらい早く生まれてしまったので、未熟な部分があったのかもしれません。

 

血中酸素飽和度がなかなか上がらなくて、産婦人科の取り上げてくれた先生も明らかに慌てていて。もちろん、僕たち家族には心配させないようにしてくれていたけど、酸素10Lくらい投与していたから、さすがに僕も察しました。

 

到着するなりすぐに人工呼吸器を装着されて、「肺の状態が悪く、心室中隔の欠損がある。状態はよくない。ここ数日でどういうふうに転がるか分からない」と、ムンテラを受けました。

 

僕たち家族には何もできないから、「とにかくできる治療をお願いします。」と頼み込みました。命に関わるぐらいの悪い状態は一週間ぐらいで脱し、その後も病院での治療の甲斐あって、少しずつ状態が安定し、2か月くらいで退院することができました。

 

ただ、退院後の生活をしていく中で、徐々に喘息やアトピー性皮膚炎などのアレルギー症状がどんどん出てきてしまいました。加えて、風邪をひいて熱を出すと結構な頻度で熱性けいれんを起こし、救急車にも3回ぐらい乗りました。

 

喘息発作や熱性けいれんなどのために2歳半くらいになるまでは毎月入院していました。その頃は、家族が交代で付き添いながら、半分病院、半分自宅という生活を送っていました。

 

その頃、僕は息子が苦しんでいる姿を横でただただ見ているだけで何もできなかったことが悔しかったんですよね。無力感を覚えました。

 

息子が入院した病院は、僕が当時働いていた病院でしたから、自分の後輩が呼吸リハビリしにくるんだけど、その目の前で僕は何をすることもできなかったんですよね。呼吸リハも小児のリハも全然勉強していませんでしたからね。後輩もやりにくかったと思います(

笑)

 

また、発作が起きたときに症状を抑える薬はあるけど、根本的に喘息を治すという薬自体がないこと、つまり対処療法しかできないというもどかしさも感じていました。

 

もちろん、その薬のおかげで、命を助けてもらったわけですから、今でもその先生にはとても感謝しています。ただ、根本的に治るかどうかは成長を待たないと分からないということでしたし、それをただ見守っていることももどかしさを感じる理由でした。

 

その頃から、理学療法士として何かできることがあるのではないのかと考えて、いろいろ勉強し始めました。

 

根源治療の探索

ー どんな勉強をしたのですか?

 

及川さん 最初は、アレルギー科の医師が読む学会誌を読んだり、アレルギーはどういう原因で起こるのかを調べたり、生理学や解剖の本を見て、アレルギーにどういう臓器が関わっているのか、その臓器が元気な状態じゃなくなるとどうな症状が出るのか、身体のメカニズムから学びました。

 

「アトピー性皮膚炎においては血流、喘息については気管支の動き、加えて免疫に関する臓器の状態を良くすれば、症状が改善していくのでは」と仮設立てて、次男に1つ1つ試してみたら、確かに効果を感じるものがありました。もちろん、全く効果がなかったり、痒みを強くしてしまったり、咳が増えたりと悪化させてしまうこともたくさんありました。

 

だんだんと自分の中で、アレルギーに対する理学療法で効果のあるものが蓄積してからは、アレルギーを持っている同僚スタッフとか、そのお子さんとかをみさせていただいていました。その頃からだんだんと、アレルギーで困っている方の助けになりたいと、独立を考え始めました。

 

ー それで2014 年にアレルギー専門院「アレルコア」を起業したのですね。

 

及川さん そうですね。その他、独立をした理由としては、病院の管理職になりたくないという思いもありました。

 

役職が上がって行く度にどんどん臨床から離れることが嫌でしたし、かつ、その当時の上司たちが窮屈そう仕事しているように見えていました。今になってみれば、そういう役職の人たちの存在が病院にとって、リハ科にとって、すごく大事というのは分かります。当時は全然思えませんでした。

 

病院の管理職になるためにPTになったわけじゃないと思っていたから。僕だからこそ出来る仕事をする環境に身を置きたいなとは思っていました。それが早まったのは東日本大震災が1つのきっかけですね。

 

2011年当時、福島県で住んでいましたので、震災、そして原発の問題の影響が大きくて、住む場所、働く場所を変えなければならなくなり、私の実家のある岩手に引っ越しました。自分の知識も技術も変わらないのに、働く場所が変わるだけで、給料も下がるというのはやっぱり嫌でしたね。今、客観的に考えれば、給料が下がったのは場所のせいではないことは、分かるんですけどね(苦笑)

 

どこにいても求められるような存在だったら、給料ももらえるだろうし、「及川さんじゃないとだめだ」とクライアントに言ってもらえるような存在になりたいと思いました。

 

【目次】

第一回:アレルギーに理学療法を駆使して、立ち向かう 

第二回:アレルギー×理学療法の実践例

 

アレルギーに理学療法を駆使して、立ち向かう【及川 文宏】

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