クラスメイトの大学祭でリハビリテーションに出会う
ー 先生が理学療法士になったきっかけを教えてください。
秋田先生 そもそも、私は父が工学系の仕事だったこともあり、大学受験ではあたりまえのように工学系の大学を選びました。当時都立の高校にいたのですが、クラブ活動に精を出し勉強をしていなかったため落ちてしまいました。予備校に行っていながらも、なんだか進路に自信がなく勉強に身が入らなかったので、結局二浪する羽目になりました。
浪人していた時に、高校のクラスメイトの誘いで福祉系の大学の学園祭に行ったのですが、そこで「リハビリテーション」という言葉に出会ったのです。学園祭の中のイベントで、リハビリテーションについて発表しているものがあり、その内容に興味をもちました。
ある予備校の試験を受けた時に大学合格者名簿が配布されたのですが、東京大学、京都大学から始まるその名簿の最後に「国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院」という学校の名前を見つけました。
学園祭で耳にした「リハビリテーション」と関連のある学校かなあ、と興味が湧き、清瀬にあるその学校を訪ねることにしました。そこでいろいろと理学療法士や作業療法士の仕事の内容、必要性や将来性を伺うことができ、「そうだ理学療法士になろう!」と決めました。その時初めて自分の進むべき進路が定まったように感じました
受験した年には東京都立の養成校も開学したので二つの学校を受験し、めでたくどちらの学校にも合格することができました。どちらの学校に行くか迷ったのですけど、清瀬の養成校にはすでに先輩がいましたので、清瀬に入学することにしました。入学した1969年当時は、ベトナム戦争反対運動や、日米安全保障条約反対運動やら、大学とは何かを問う大学紛争が全国で勃発していて、世の中が揺れ動いている時代でした。
そんな時代、3年制の専門学校であった清瀬の学院にも、その余波が降りかかってきました。当時、国の肝いりで、理学療法士・作業療法士の育成を始めるべく開学された清瀬のリハ学院では、専門科目の教官はWHOから派遣された外国の先生方がほとんどで、専門教科の授業の多くは英語で行われていました。
ちょうど先輩にあたる1期生が卒業して、そのまま教官になる方もいました。そんな教官の先生方が、3年制の専門学校を卒業してすぐに学生を教育することなんかできない、と声を上げたのです。
理学療法士・作業療法士の教育は4年制の大学ですべきだ、という先生方に共鳴して学生たちも一緒になってストライキを起こしました。私が入学して1年経とうとしていた時でした。毎日のように討論会があったり、当時学院長であった砂原茂一先生と夜遅くまで団体交渉をして大変なときでした。
そんな中でも理学療法の勉強をはじめて、とても面白みを感じていました。集まっているクラスメイトも人生経験が豊富な人が多く、大卒や社会人経験がある人の中に紛れながら理学療法士を目指していました。
ー ストライキには参加したのですか?
秋田先生 その当時の野党には社会党系、共産党系という勢力があって、改革の方法論の違いから分裂していて、私たちの学院の4年制運動にも影響が及んでいました。
私の立場は政治の世界はともかく、理学療法に関してはこれから発展していかなくてはいけない大事な仕事だし、教育も4年制で行うべきだ」という認識がありました。
新学期が始まってからも授業は始まらず、結局春も終わるころになって授業が再開されました。
ストライキの渦中で辞めていった先輩や同級生も多くいましたが、その中でも「3年制の学校だけど4年制大学のようなカリキュラムで勉強しなくてはいけない!」ということで、自分たちで講師の先生を探したりして1年間自主的に留年することになりました。
私たちの1年上のクラスは全員、私たちのクラスは約半数が居残ることになったのです。
【目次】
第一回:教育は4年制で行うべき
第二回:チェアスキーの発展
日本支援工学理学療法学会の情報
設立の趣旨
義肢装具、車いすや福祉用具による急性期、回復期、維持期(生活期)、終末期の各病期での介入効果の検証や開発等を基盤とする臨床研究の推進とEBMの構築を図り、障がい者の生活自立支援を促進するための住環境整備への関わり、ロボティクス技術による運動療法機器や。福祉工学的支援としての介護機器の活用、新たな開発や効果検証など幅広い領域を網羅しています。さらに運動器、脳血管障害や脊髄損傷を始めとする中枢性神経障害、内部障害や虚弱高齢者等を対象として、関連する領域との横断的臨床研究活動の実践、障がい者(児)、高齢者の活動・参加とノーマライゼーションの促進、さらに隣接する理学療法学会との積極的連携を図りながら、包括的理学療法サービスの展開とQOL向上に寄与することを設立目的としています。
日本理学療法士学会 動物に対する理学療法部門の情報
設立の趣旨
動物に対する理学療法部門は、動物を対象とし、動物自身と動物と生活する人を包括的に支援していくために、日本動物理学療法研究会や関連学会と連携し、獣医療におけるリハビリテーションおよび理学療法に関する臨床研究・基礎研究を行い、人材の育成に努め、動物理学療法の普及と獣医療の発展に寄与することを目的とします。
また、世界理学療法連名のサブグループの連携窓口になります。
秋田裕先生 プロフィール
【経歴】
1949年東京で生まれる。
1969年4月 高校卒業 後、2年間の浪人を経て国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院理学療法学科入学。
1973年3月 4年かけて同校卒業。京都府立洛東病院、神奈川県総合リハビリテーションセンター、健康保健総合川崎中央病院(現 川崎社会保険病院)、を経て横浜市総合リハビリテーションセンター2009年の定年まで勤務。
2007年 日本理学療法士協会賞受賞
2011年 神奈川県知事表彰(保健衛生表彰)受賞
2015年 厚生働大臣表彰受賞
【役職等】
社団法人日本理学療法士協会代議員、生活環境支援系専門理学療法士。
日本支援工学理学療法学会運営幹事
動物に対する理学療法部門代表運営幹事
社団法人 神奈川県理学療法士会監事
日本身体障害者補助犬学会理事長
【その他】
1978年より、車いす障害者のスキー用具である「チェアスキー」の開発と普及活動に参画。1980年の日本チェアスキー協会の設立以後、運営委員、強化部員、理事。日本障害者連盟の設立に携わり理事として障害者スキーの普及と競技選手の養成など、国内国外での活動にかかわる。1984年にはスイス・ドイツの障害者と共に開催したシットスキー国際ミーティング(スイス・サンモリッツ)の企画運営に携わり、1988年第4回冬季パラリンピック大会(オーストリア・インスブルック)、1992年第5回冬季パラリンピック大会(フランス・ティーニュ)にはサポーターとして参加した。1998年第7回長野パラリンピック冬季大会で女子選手として初めて金メダルを獲得した大日方邦子選手は横浜リハセンターででの担当理学療法士だった。
2000年の上海万博では、万博史上初めて開設された障害者パビリオンで、補助犬(盲導犬、介助犬、聴導犬)5頭をユーザーとともに紹介。理学療法士の職域拡大の課題として、動物に対する理学療法の確立を目指して活動している。