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理学療法士=脇元先生
―理学療法士になったきっかけを教えてください。
細川さん:小さい頃、とにかくやんちゃだったので、よくケガをしていました。幼稚園の頃には鎖骨を折ったり、小学6年生の頃には手の骨を折ったりしました。私は、生まれも育ちも船橋で、ちょうど運ばれたのが近くの船橋整形でした。私が小学6年生の頃で、ちょうど船橋整形が出来た時でした。そこで入院して手術もして退院後リハビリで1-2ヶ月ほど通ったんですが、その時に担当してくれたのが脇元先生でした。「めちゃくちゃデカいなー(身長193cm)」というのが率直な感想です。笑 そこから自分は将来、医療の道に進むと決めていました。
当時は医者と悩んだのですが、お金もかかるし勉強も出来なくちゃいけないので、早々に断念し医者ではなく“リハビリする人”になろうと中学1年生の時に決意したんです。後にちゃんとリハビリの専門職について調べて、理学療法士という資格があることを知りました。
―その当時から脇元先生は有名だったのでしょうか?
細川さん:他の先生に診ていただいたことが無いので分からないですが、理学療法士=脇元先生という感じでしたね。その当時は、「スゴイ」ということもあまり分かっていなかったんですけど、この業界に入ってやっとそのスゴさが分かりました。脇元先生がきっかけで理学療法士になりたいと思ったんですが、当時の養成校は倍率が非常に高かったんです。自分は文系が大の苦手でしたので国公立は諦めていました。泣 その当時、国内には4つしか大学が無かったんですよね。
国福(国際医療福祉大学)と川崎(川崎医療福祉大学)と吉備(吉備国際大学)と北里(北里大学)にしかなかった。北里がその当時、倍率が34倍という時代でしたので、当たり前のように一年浪人することになりました。でもその一年はものすごく充実していて、予備校が空いている時間は黙々と勉強して、その代わり帰りに友達とカラオケに行ったり、ゲームセンターへ行ったりして遊んでました。とにかくメリハリがはっきりしてた1年でしたね。
そうしているうちにみるみる成績が上がっていって、医療系の模試を受けた時に、数学は全国16位、化学は全国2位になったこともありましたね。笑 それで翌年、無事に国福に合格しました。それで大田原に行ったという感じです。僕が入った当時は、大学が出来て4年目で大学周辺も非常に閑散としていましたね。笑
―国福は医療系の学生が多い学校なのでしょうか?
細川さん:PT・OT・ST・Ns・放射線・経営管理・福祉学科がありましたね。僕の同級生(理学療法学科)では半ちゃん(半田)がいます。あと、アッキー(川田)、ハマ(濱中)、タツ(吉松)、ふっち(及川)とか、他にも本当に優秀なPTが多くいますね。本当に優秀な良い仲間がたくさんいて頼もしい限りです。
―実習はどういった場所を希望されたんでしょうか?
細川さん:就職とかは特に意識せず選びました。とりあえず、学生時代は卒業することを一番に考えていましたので。「中枢がいい」とか「整形がいい」ということは無かったですね。ただ、実習で川鉄(今で言う千葉メディカルセンター)に行ったんですよ。
そこで、高間先生にはバイザーで大変お世話になりました。高間先生は今でも憧れの理学療法士の一人です。そこで整形外科を、かなり勉強しましたし、スポーツ障害も見させていただきました。今、船橋整形にいる膝・足専門の土屋先生と肩・肘専門の菅谷先生は私が実習に行っていた当時は、まだ川鉄にいらっしゃったんです。学生の時にあの二人の診察見学に入れたのは、運が良かったとしか言えないですね。自慢できる体験ですし、大変貴重な経験でした。
【目次】
第一回:私の担当理学療法士は脇元幸一先生
第二回:船橋整形外科→ソニー生命
第三回:ライフプランニングと理学療法評価
最終回:遠い約束を果たすために
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細川智也さんのプロフィール
1979年2月 千葉県船橋市生まれ
1998年4月 国際医療福祉大学(大田原)入学
2002年4月 船橋整形外科病院 就職(理学療法士)
2017年4月 ソニー生命保険株式会社 転職(ライフプランナー)
船橋整形外科病院では、下肢部門の課長として自分のグループを受け持つ。 研究報告や論文は、主にACLやアキレス腱断裂に関するもの多数。 その他、Spine Dynamics、筋膜マニピュレーション(level2まで)、DNS、クラインフォーゲルバッハ、MSIなどを駆使し、老若男女からアスリートまでの治療に従事するも、ヘッドハンティングにより2017年4月からライフプランナーへと転職し、初年度は新人賞にも入賞し今に至る。