キャリアコンサルタントが徹底サポート

【特別講演Vol.4】恩師の教え、ロッテへの執念、そして「一緒にドジャースへ」 ドジャース伊藤PTの運命を変えた「3つのターニングポイント」

1054 posts

日本人初のMLB球団雇用、そしてワールドシリーズ制覇。華々しい経歴を持つ伊藤憲生氏(31)だが、そのキャリアは決してエリート街道ではなかった。特別講演レポート第4弾は、平凡な学生が抱いた「危機感」、彼を育てた二人の恩師、そして千葉ロッテマリーンズへの執念の入団から渡米に至るまでの「挑戦の軌跡」を追う。

恩師・鶯先生の教え。「行動して、形に残しなさい」

大学2年生の頃、伊藤氏は漠然と過ごす日々に焦りを感じ始めていた。「このままじゃいけない」。そこで彼が始めたのは、「将来はプロ野球のトレーナーになりたい」とあえて公言し、退路を断つことだった。

そんな彼に道を示したのが、大学時代の恩師・鶯(うぐいす)春夫先生(現・徳島文理大教授、徳島県PT協会会長)だった。 「とにかく行動しなさい。学会発表や論文など、目に見える形で外に発信していきなさい」ただ技術を磨くだけでなく、それを客観的な「形(アウトプット)」にしなければプロとして認められない。その教えを胸に、伊藤氏は卒業後、「一番厳しい環境」と噂されていた愛知県の吉田整形外科病院へ飛び込んだ。

病院時代の修行。「自分の発表じゃないくらい直された」

病院では、中宿伸哉先生(現・徳島文理大教授、当時リハビリ科課長)の下、怒涛の日々を送った。 「1年目から学会発表をさせてもらったんですが、最初は『これ自分の発表か?』というくらい、中宿先生に真っ赤に直されました(笑)」それでも、「まずは3年」と決め、来る日も来る日も論文を書き、エコー技術や臨床の土台を固めた。この泥臭い下積み時代が、後の伊藤氏の「武器」となる。

5回の面接、一度の不合格。執念で掴んだ「ロッテ」の切符

恩師たちの下で実力をつけた伊藤氏は、ついに夢である「千葉ロッテマリーンズ」の門を叩く。しかし、プロの世界は甘くなかった。「書類選考から始まって、実技、面接……最終的には5次試験までありました。実は一度落ちているんです」それでも諦めきれずに再度挑戦。「どうしてもこの仕事がしたい」という熱意と、病院時代に培った確かな臨床能力、そして鶯先生の教え通りに積み重ねた「形に残した実績」が評価され、ようやく合格を勝ち取った。

「一緒にドジャースへ」人生を変えた一言

ロッテでの2年間、伊藤氏はリハビリ部門のチーフとして選手たちを支えた。その中で信頼関係を築いたのが、佐々木朗希だった。ある日、退団の意思を伝えた際、佐々木投手から思いがけない言葉をかけられる。「一緒にアメリカへ行ってもらえますか?」

安定したプロ球団の職を辞し、異国の地へ渡る。大きなリスクを伴う決断だったが、伊藤氏は迷わなかった。学生時代の危機感から始まり、恩師に鍛えられ、ロッテで開花した才能は、いつしか日本を代表する投手と共に世界へ挑む物語へと変わっていた。

(※鶯先生のインタビューは、近日公開予定)

【目次】

ドジャース・伊藤憲生氏が母校で講演「身体機能がメンタルを支える」─佐々木朗希との1カ月半

「かつては私もメンタルのせいにしていた」ドジャース伊藤憲生PTが“原点回帰”で突き止めた、佐々木朗希「回外型スライダー」の代償

「登板1時間前の打撃練習」 ドジャース伊藤憲生PTが見た、大谷翔平とレジェンド・カーショウの“異常”な準備

恩師の教え、ロッテへの執念、そして「一緒にドジャースへ」 ドジャース伊藤PTの運命を変えた「3つのターニングポイント」

深夜1時半の着信。WSの舞台裏と、伊藤憲生PTが迫られた「究極の決断」

この記事の執筆者
執筆者の写真
今井俊太
【POST編集部】取締役 兼 編集長

理学療法士としての現場経験を経て、医療・リハビリ分野の報道・編集に携わり、医療メディアを創業。これまでに数百人の医療従事者へのインタビューや記事執筆を行う。厚生労働省の検討会や政策資料を継続的に分析し、医療制度の変化を現場目線でわかりやすく伝える記事を多数制作。
近年は療法士専門の人材紹介・キャリア支援事業を立ち上げ、臨床現場で働く療法士の悩みや課題にも直接向き合いながら、政策・報道・現場支援の三方向から医療・リハビリ業界の発展に取り組んでいる。

【特別講演Vol.4】恩師の教え、ロッテへの執念、そして「一緒にドジャースへ」 ドジャース伊藤PTの運命を変えた「3つのターニングポイント」

最近読まれている記事

企業おすすめ特集

編集部オススメ記事