伊藤憲生氏の講演レポート最終回は、彼が世界一の現場で直面した「プロフェッショナルの決断」についてお届けする。華やかなシャンパンファイトの裏には、理学療法士としての「教科書にはない闘い」があった。
深夜1時半の着信。「プレッシャーで眠れなかった」
伊藤氏が「一番苦労し、一番報われた」と語るのが、ワールドシリーズでの闘いだ。第2戦の前夜、伊藤氏の携帯が鳴ったのは深夜1時半だった。「試合前に肩を診てもらえますか?」連絡の主は山本由伸投手のマネージャーからだった。世界一をかけた大一番を前に、身体のケアを求めてきたのだ。「正直、プレッシャーで眠れませんでした」伊藤氏はそう笑うが、その夜の施術がチームの運命を左右することを誰よりも理解していた。眠気など吹き飛ぶほどの重圧の中で、彼は理学療法士としての責務を全うした。
伝説の第7戦。「とにかく肩の『外旋』を作ってほしい」
そして迎えた運命の最終・第7戦。前日の第6戦で先発し96球を投げていた山本由伸投手が、まさかの「中0日」で9回のマウンドに上がった。球場がどよめきと歓声に包まれる中、ベンチ裏では壮絶な闘いが繰り広げられていた。初回から4回裏まで、伊藤氏は山本投手のケアにあたっていたのだ。
「身体が固まって、可動域が出ない。とにかく肩の『外旋』を作ってほしい」極限状態の腕を、理学療法で再び投げられる状態に戻す。医学的に見れば無謀とも言える連投だが、チームが積み重ねたアウトの裏には、投手をマウンドへ送り出し続ける一人の理学療法士の闘いがあった。
究極の問い「怪我をしている選手を止めるか、行かせるか」
講演後の質疑応答で、学生から「怪我をしていても試合に出すかどうかの判断基準」について質問が飛んだ。これに対し、伊藤氏は山本投手との経験を踏まえ、病院勤務時代とスポーツ現場での「決定的な違い」を明言した。
「病院では『痛みを取ること』が最優先です。だからリスクがあれば止めます。でも、スポーツ現場では、選手は人生を懸けている」特にワールドシリーズのような大舞台では、医学的にはリスクがあっても、選手の覚悟とチームの状況を天秤にかけ、ギリギリの決断を下さなければならない。「どうすれば痛みをごまかしてでも投げさせられるか」。そのプレッシャーの中で最適解を出すことこそが、メジャーの理学療法士の日常なのだ。
選手よりも早く、誰よりも準備する
講演の後に、POST取材班は伊藤氏に一つの質問を投げかけた。「講演の中で、移動や環境の変化で体調管理に苦労する選手の話がありました。理学療法士も同様に、自身の体調がパフォーマンスに直結すると思いますが、伊藤さんはどのように管理されていたのですか?」
これに対し伊藤氏は、千葉ロッテ時代にも経験しなかった“ある”習慣を語った。「アメリカのトレーナーは、選手が来る1時間前からジムで自分のトレーニングをします。僕もそれを習慣にしました」
選手に厳しいトレーニングを要求する以上、自分もその苦しさを知り、実践できる身体でなければならない。「教える以上、自分もできないといけない。自分のコンディショニングを整えることが、結果として現場への還元になります」自らの心身を整え、選手と同じ目線で闘う。その背中があったからこそ、大谷翔平やカーショウといったレジェンドたちも、彼を「チームの一員」として認めたのだろう。
「高い目標を決めて、公言すること。そして目の前の人をどう助けられるか、日々考えること」学生時代の危機感から始まり、恩師の教えを守り、そして世界一の頂へ。伊藤憲生氏が見せた「原点回帰」と「挑戦」の姿勢は、次なる世界を目指す理学療法士たちの背中を、強く、優しく押してくれている。

(全5回連載終了)
【目次】
・ドジャース・伊藤憲生氏が母校で講演「身体機能がメンタルを支える」─佐々木朗希との1カ月半
・「かつては私もメンタルのせいにしていた」ドジャース伊藤憲生PTが“原点回帰”で突き止めた、佐々木朗希「回外型スライダー」の代償
・「登板1時間前の打撃練習」 ドジャース伊藤憲生PTが見た、大谷翔平とレジェンド・カーショウの“異常”な準備
・恩師の教え、ロッテへの執念、そして「一緒にドジャースへ」 ドジャース伊藤PTの運命を変えた「3つのターニングポイント」
・深夜1時半の着信。WSの舞台裏と、伊藤憲生PTが迫られた「究極の決断」
理学療法士としての現場経験を経て、医療・リハビリ分野の報道・編集に携わり、医療メディアを創業。これまでに数百人の医療従事者へのインタビューや記事執筆を行う。厚生労働省の検討会や政策資料を継続的に分析し、医療制度の変化を現場目線でわかりやすく伝える記事を多数制作。
近年は療法士専門の人材紹介・キャリア支援事業を立ち上げ、臨床現場で働く療法士の悩みや課題にも直接向き合いながら、政策・報道・現場支援の三方向から医療・リハビリ業界の発展に取り組んでいる。







