発表者:
飯塚 敏晃 (東京大学大学院 経済学研究科及び公共政策学連携研究部・教育部 教授)
重岡 仁 (東京大学公共政策学連携研究部・教育部 教授/サイモンフレーザー大学経済学部 准教授)
発表のポイント:
・日本の子ども医療費助成の情報とレセプト(診療報酬明細書)データを用いて、「子ども医療にゼロ価格効果が存在する」ことを定量的に示した。
・「ゼロ価格効果」は、学生等を被験者とした実験では確認されていたが、実際の消費行動に基づくリアルデータを用いた分析としては、世界で最初の論文である。
・本論文の知見は、政府が今後、「無料」と「無料以外」を戦略的に使い分け、社会厚生の向上を目指す際に、活用されることが期待される。
発表概要:
東京大学大学院 経済学研究科の飯塚 敏晃教授、及び、東京大学公共政策学連携研究部の重岡 仁教授は、日本の子ども医療費助成の情報とレセプト(診療報酬明細書)データを用いて、「子ども医療にゼロ価格効果が存在する」ことを定量的に示した。本研究成果は、2022 年 9 月 29 日(米国東部夏時間)に米国経済学誌「American Economic Journal: Applied Economics」のオンライン版に掲載された。
伝統的な経済学において、「ゼロ価格(=無料)」は、価格が低下する際の単なる延長戦線上にあると考えられてきた。しかし、最近の行動経済学においては、物やサービスの価格が、0 円(=無料)とごくわずかな金額(例えば 10 円)とでは前者の方が需要を大きく増やす可能性が指摘されてきた。こういった、無料が他の価格と本質的に異なる可能性を、「ゼロ価格効果」と呼ぶ。
本研究では、子ども医療を対象に「ゼロ価格効果」が存在するかについての検証を行った。では、なぜゼロ価格効果が重要なのだろうか。それは、もし医療サービスにおいて、ゼロ価格効果の存在が確認できれば、無料と無料以外の価格を巧みに使い分けることで、社会厚生を向上できる可能性がある。例えば、乳幼児を対象としたワクチンやコロナワクチンのような価値の高い医療サービスは、費用をタダにすることで大幅な利用増が見込める。一方で、不適切な抗生物質の利用のような価値の低い医療サービスは、無料とせずわずかでも費用負担を課すことで大きく削減することが可能となる。
日本では、医療費の自己負担率は原則3割だが、子どもに対しては多くの自治体が助成を行っている。自治体間による助成競争の結果、市町村ごとに、①助成対象となる年齢、②自己負担額が異なる。②に関しては、3 割分を全て負担して医療費を「タダ」にする無償化が主だが、それ以外に 10%、20%などの定率負担や、1 回の受診ごとに 200 円、300 円といった少額を払う定額負担の自治体が存在する。
本研究では、人口の多い 6 県(294 市町村)についてこれらの医療費助成の情報を 2005〜15 年の 10 年分収集し、JMDC 社の 6〜15 歳のレセプトデータに結合しデータを構築した。そして、上記の①及び②に関する、市町村の内容の違い、及び導入のタイミングの違いを利用する、「Difference-in-differences method(差分の差分法)」という計量経済学の分析手法を用いた。
図 1 は、自己負担があると、月に 1 回以上外来受診する子供の割合がどの程度減少するか、無料時との比較を示している(%ポイント)。1 回当たり定額を負担する場合は、平均的な自己負担率に換算し表示している。なお、自己負担がゼロの時に月に 1 回以上外来受診する確率は 43.9%である。
まず、図の各点に注目すると、全ての点が横軸(Y=0)の線よりも下にあることから、いずれの自己負担率の場合も、無料に比べ医療需要が減少するのがわかる。一方で、興味深いことに、少額の定額負担と、より重い自己負担である定率負担とでは、需要の減少幅がさほど大きく異ならない。つまり、自己負担が有るか無いかは医療需要に大きな影響を及ぼすが、自己負担の大きさそのものはさほど需要に影響しないことが示唆される。
次に、自己負担割合と医療需要の関係から「ゼロ価格効果」の有無を検証した。図の各点を滑らかな線で結び(点線)、それが縦軸と交わる時の縦軸の値が、限りなくゼロに近い価格を課した場合の需要の予測値となる。従って、もしこの線が原点を通らない場合は、非ゼロ価格からゼロ価格になることで、需要が非連続的に増加(ジャンプ)することになり、ゼロ価格効果の存在を示唆する。実際に図 1 を見ると、点線は原点を通っていない。原点と縦軸の値の差(=「ゼロ価格効果」)は統計的に有意であるため、子ども医療費においてゼロ価格効果が存在することがわかった。
ゼロ価格効果の存在は、裏を返すと、1 回 200 円といった少額であっても、自己負担を課すことで、ゼロ価格に比べて医療需要が大幅に減ることを意味する。そこで、少額の自己負担(200 円/回)を課すと、1)どのような子どもの医療が減るか、2)どのような治療がより減るか、の検証を行った。その結果、1)に関しては、健康状態のよくない子どもが月に 1 回以上受診する割合は減らないが、比較的健康にもかかわらず頻繁に医師を訪れる子どもの受診が大幅に減る、ことがわかった。つまり、少額の自己負担は、不健康な子どもに悪影響を及ぼすことなく、比較的健康な子どもの過剰な医療需要を減らすことができると思われる。2)に関しては、「価値が高いとされる医療」と「価値が低いとされる医療」(注1)のどちらも減少するが、特に、後者の例である、不適切な抗生物質の利用の減少幅が大きかった。このような医療については価格を完全に無料とせず少額であっても自己負担を課すことで、不適切な治療を減らすことが可能と考えられる。
以上により、本研究の分析によって、子ども医療にゼロ価格効果が存在すること、及び、価値が高いとされる一部の治療を除けば、自己負担を「ゼロ」にすることは、不必要な医療を増やす可能性が高いことが分かった。したがって、政府は秩序なき医療費無償化を見直し、その上で「無料」と「無料以外」を医療サービスの価値によって使い分ける、「価値に基づく医療保険設計」を推進していく必要がある。
発表雑誌:
雑誌名:
「American Economic Journal: Applied Economics」
論文タイトル:
Is Zero a Special Price? Evidence from Child Healthcare
著者:
Toshiaki Iizuka, and Hitoshi Shigeoka
DOI 番号:
10.1257 /app.20210184
アブストラクト URL:
https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/app.20210184
用語解説:
(注 1)
「価値が高い医療」:日本では、ワクチン接種といった価値が高いとされる予防的医療の多くは、既に無料なので、それらを除いた上で、医療分野の文献に基づき、肥満、注意欠如・多動症、思春期うつ病の診察等の予防医療とした。
「価値が低い医療」:
不適切な抗生物質が処方される場合とした。
添付資料:
図 1: 自己負担率と外来受診の関係
縦軸は、無料の時に比べて子供の医療需要がどれだけ減るかの推定値及び 95%信頼区間を示す。
なお、無料のとき月に 1 回外来受診する確率は 43.9%で、縦軸はここからの減少幅(%ポイント)を負の値で示している。横軸は、自己負担率(Share of cost-sharing)を示す。定額負担の際の自己負担率は、月当たりの自己負担額を総額医療費で割ることで計算した。1USDあたり100円として計算している。
詳細▶︎https://www.tsukuba.ac.jp/journal/medicine-health/20220930140000.html
注)プレスリリースで紹介している論文の多くは、単純論文による最新の実験や分析等の成果報告に過ぎました。 、さらに研究や実験を進める必要があります。最新の研究成果の利用に際しては、専門家の指導を受けるなど十分配慮するようにしてください。