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【冨田昌夫先生|理学療法士】藤田保健衛生大学リハビリテーション学科 客員教授

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理学療法士

心底興味があるのは何か

ーー 冨田先生、本日はよろしくお願いします。

 

冨田先生 じゃあ、ここでみかんでも食べながらざっくばらんに話しましょう。

 

ーー ごちそう様です。ありがとうございます。

では先生、早速質問に入っていきたいんですが、冨田先生は元々工学科出身でいらっしゃるんですよね?どういう経緯でPTになろうと思ったんですか?

 

冨田先生 それは複雑で、あんまりしゃべりたくもないんだけどもね、まぁただおぼろげに障害を持っていらっしゃる方となにかしたいと思っていたんだよ。

 

 

それは、自分は何も出来ないと思っていて劣等感もあったのかもしれない。そんなときに困っている人となんか一緒にやりたいという思いがあった。

 

 

大学終わって就職するときに、当時の早川電機(現シャープ)の社長が盲の人に助けられてなんとか生き延び、そして自分が成功した時になんとか恩返ししたいと言っていて、当時まだ障害者と健常者が一緒に働いている職場なんてなかったんだけど、シャープは一緒に働いていた。
 

 

だから興味があって、そこに就職した。

 

 

でも僕らが卒業する2年前くらいに世界的に大不況になって、企業そのものがつぶれそうになった。その時シャープも不況から立ち直るときに、言い方は悪いけどやっぱり障害者の方が足手まといになってしまった。

 

 

それで生産力で勝負にならなくなってしまったんだよ。

 

 

そんな中で、働く場を全部奪ってしまうのは嫌だが、効率が悪い形で動いてもだめだし、なんとか動かせる規模に縮小してでも障害者雇用を続けたいということで盲人部門を別組織に分けたんだよね。

 

 

そういう変化で、シャープにいった意味がなくなって、どうしようか自分が迷っていた時に、興味があった障害者のボランティアに行っているうちに、・・・間違ってるかもしれないけど、確か・・・「子供の権利」という本に出会った。
 
 
子供の権利は『教育は保障されているのに夜間中学があるのはなんで?』という内容の本だった。夜間中学の問題を取り上げて書いている本に出会い、教育ってこんなところまでやるんだと感心した。

 

 

そこで教育を覗いてみたいと思ってその先生のところに行った。
 
 
 
そしたら先生に本気で教育をやってみたいなら大学院のほうに入ってみたら?と言って頂いた。

 

 

ただ、自分が教育に対して「心底本気で興味があるんだろうか?」「教育に携わってやっていけるんだろうか」と考えた時に、自分は頭が悪いと思っていたから頭が悪いやつが誰かに知識を教えるなんて出来ないなと思った。

 

 

でも、そこで体を動かすことなら少しは出来るかなとも思ったんだ。不器用だからハイレベルなスポーツはできないけど、身体動かして体が動きにくい人の世話をすることなら出来るかなと思った。

 

 

そんなときに、理学療法というものがあると知った。
 
 
体を動かすことが強みと感じていた。
 

最初は「子ども!子ども!」

ーー そのような経緯で理学療法の道に入られたんですね。先生は、理学療法になるためには関東の国立療養所に行かれたんですよね。

冨田先生 そう、その当時は3つしか学校がなかった。清瀬・九州・府中の3つしかなかったんだよね。

 
どれにしようかといってもお金がなかったので、お金のかからない清瀬に行った。清瀬の頃は「子供の理学療法」をめちゃくちゃやりたかった。当時は「子供、子供」と騒いでいた。(笑)
 
 
実習で大阪の子供専門病院があってそこでボバースをやっていて、ボバースをやってみたいと思ってそこに実習に行った。でも、そこで自分が子供とのリハビリをするのは無理だなと感じた。
 
 
それで、子供は諦めてどこに行こうかと思っていた時に、神奈川リハビリテーション病院に誘われた。
 

ーー すごいモチベーションで実習に行かれたのですね。

 

冨田先生 どんなことがあっても大阪の病院に行くと言って、他の人が行きたがっていたのを奪ってまで行った(笑)

 

ーー でも先生、そんなに高いモチベーションで行かれたのに子供のリハビリが自分に無理だと感じたのはなぜですか?子供には合わないと感じたんですか?

冨田先生 いや、子供を診るのはあまりにも責任が重かった。だってその子の生き方を決めるのは俺になってしまう。当時の俺にはそんなこと出来なかった。

 

ーー なるほど。そこまで実習で突き詰めて考えられていたのですね。 その後、神奈川で6年ほど勤務され、スイスに行かれましたよね? 神奈川リハビリテーション病院でもボバースを勉強されていたんですか?

 

冨田先生 ボバースが好きだったけどボバースだけをやろうと思っていたわけじゃない。ボバースの「全人的アプローチ」という考え方が好きだった。

 

小手先でやるんじゃなくてその人を見ようよという考えというか概念が好きだったからテクニックとしてボバースじゃなくても良かったんだよね。
 
 
だから、いろんなテクニック学んだし、自分は理学療法士で運動を通して人を変えたいと思っていたんだ。
 
 
それで、治療法っていうのは外国から来ているテクニックなんだから外国人と一緒にやって認められたときに、初めて理学療法士として認められるということなんだろうなとの考えに至ったんだよね。
 
 
まぁ自分の技術屋としての関門だったわけだ。
 
 
だからどんなことやってでも外国に行って外国の人と一緒に働きたいと思っていた。とにかく外国に行きたかった。
 
 
でも奨学金を個人から出してもらうと制約されてしまう。だから海外から金を出してくれるというところを探した。
 
 
そんな簡単にはないからモタモタしていたんだけど、ちょうどスイスのバーゼルというところで「イルマの学会」世界リハビリテーション会議)があり神奈川リハビリテーション病院に演題を出してくれませんか?という依頼が手紙であった。
 
 
その時は、神奈川リハビリテーション病院にドイツ人がいて私に朝、通勤途上で読んだ英字新聞をくれていた。私がそれを読んで、一つの記事の内容をドイツ語でディスカッションすることを続けてくれていた。
 
 
それで、その人が「この学会長はすごい先生なんだ!上司に“演題を出すので、そのかわりうちの若いスタッフが海外で勉強したがっているので面倒見ていただけないか”とお願いしていただけ」とアドバイスしてくれた。
 
 
この上司もすごい先生で、彼女のおかげで『スイスの病院で研修生として受けてやるから来たら?』という話になった。
 
 
研修生だから金は出さないが、宿と食事は出してくれるという条件だった。
 
理学療法士

 

「金なしマサオ」と呼ばれても

ーー ということは、給与はなし…….ですか。

冨田先生 もちろん。でも、宿と食事が出れば死なないんだから喜んで行くよなぁ。ちょうど自分が卒業する頃、痛みのゲートコントロールセオリーが定説として認められた。

 

今までは徒手的なモビライゼーションは非科学的な痛みの治療主義と見なされ、医学的な治療手段としては認知されていなかった。
『ゲートコントロールで太い線維を発火させれば、細い繊維の痛みの線維を抑制しちゃうよ』ということだからモビライゼーションが医学的治療法として市民権を得たわけだ。
 
 
それでモビライゼーションが世界的にブームとなっていた。
 
 
私もモビライゼーションテクニックの一つであるメイトランドのテクニックをやってみたいと思っていた。
 
 

それでオーストラリアのメイトランドに勉強させてくれと手紙を出したら、スイスで講習会を開くようになったから「受けられるなら受けたら?」と言ってくれた。

 

 

本当に偶然だと思うけどそれがちょうどイルマ学会の学会長の病院だったんでそこに行かせてもらった。
 
 
でね、最初は飯と宿だけだったんだけど、金がないので、土曜日、日曜日を含め毎日食堂に行っていたら、病院のリハビリスタッフがいつの間にか「金なしマサオ」として認識し代わる代わる土日に色々と誘ってくれるようになった。
 
 
そんなことで向こうの人と上手くやれるようになってきた。1ヶ月くらい経った時に、リハのトップが仕事の心配をしてくれた。
 
 
何かできないのか?と聞かれたから、養成校時代に東京の病院にアメリカから帰国された奈良先生(奈良勲先生)が働いておられた。
 
 
奈良先生からPNFを教わる会を作ろうということで、実習期間でPNFの一通りを教わっていたんだ。
 
 
その後も折に触れ学んでいたので、リハのトップに「PNFができるよ」と話をしたら、やってみろと言われ、やってみたら職員として採用してくれた。それで給料を貰えるようになり、そこで10ヶ月いさせてもらった。
 
 
神奈川リハビリテーション病院とは、必ず戻って来るという約束だったので一回戻ったが、スイスの病院のスタッフも気に入ってくれていたので、帰らないで働けと言ってくれていた。
 
 
それで、お礼奉公ということで帰国後2年くらい経ってから神奈川の病院を辞めて、スイスの病院にまた戻らせていただいた。ただ、スイスなんて九州くらいの大きさしかない、だからその当時外国人を受け入れるのはものすごく厳しい国柄だった。
 
 
旅行なら大歓迎だが、働くとなると大変だった。さらには家族を連れてとなると物凄いことなんだ。
 

 

なかなか許されない。病院に外人枠というものがあってね。

 

 

私は一人じゃなくて女房と子供も連れていったから、私を雇うためには、女房と子供2人で4人の外人枠を使うことになる。だから本来そんな簡単な話じゃなくて許してくれないんだけど、前に10ヵ月行っていたので歓迎してくれた。
 
 

ーー 先生はかなりのレアケースだったんですね。

 

冨田先生 かなりじゃなくて、もうそれは絶対のレアケースだよ。(笑)

 

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 冨田昌夫先生の経歴

【主な経歴】

1968年:茨城大学工学部電子工学科卒業

1975年:国立療養所東京病院附属リハビリテーション学院理学療法科卒業

同年:神奈川リハビリテーション病院勤務

1981年:スイスバレンツ病院勤務

1986年:神奈川リハビリテーション病院勤務

2003年:藤田保健衛生大学衛生学部看護学科教授。同リハビリテーション学科教授

 

【著書】

ステップス・トゥ・フォロー(翻訳;シュプリンガーフェアラーク東京)

パーセプション(翻訳; 丸善出版)

スイスボール―理論と実技、基礎から応用まで(共著;シュプリンガーフェアラーク東京)

【冨田昌夫先生|理学療法士】藤田保健衛生大学リハビリテーション学科 客員教授

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