「向こうの人」と言われた日。理学療法士が政治を志すまで【参議院議員|小川 克巳】(前編)

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小川克巳氏

Voice ─ 現場からの提言

「あなたたちは向こうの人」
そう言われた理学療法士が、
政治の扉を叩くまで

前編 ─ 偶然選んだ職業と、33年の教壇人生、そして「馬鹿にされない力」

世界理学療法連盟(World Physiotherapy)が創設75周年を記念して選ぶ「75人の注目すべき理学療法士」。その一人に、日本から小川克巳氏が選ばれた。2016年、日本理学療法士連盟の要請を受けて参院選に立候補し、初当選。参議院では厚生労働委員長を2度務めた。

臨床、教育、職能団体、そして国政。半世紀にわたって理学療法士という職業の「居場所」を広げようとしてきた小川氏に、その原点を聞くと、返ってきたのは意外な言葉だった。

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偶然というか、偶発的だったんだと思います

── 小川 克巳 氏

「よくわからなかった」職業を選んだ

もともと志していたのは医学部だった。進路に迷うなかで、姉の友人が通っていた養成校の話を耳にする。九州労災病院の中にある、理学療法士と作業療法士の養成校だった。

「医学部が厳しいようだったら、少なくとも医療のそばにはいたいなと思って。ちょっと調べてみたんですけど、さっぱり要領を得ない。よくわからなかったんですよ、理学療法士っていうのはね」

医療を目指した背景には、家族の事情があった。母は体が弱く、父は小川氏が子どもの頃に事故に遭った。親戚の家に預けられた経験もある。医療者の身内がいたわけではない。「なんとか自分の力でできるかな」という思いが、見知らぬ職業へと背中を押した。

「新しい領域でもあるし、面白そうだなと。それでチャレンジしてみようと入ったんですけど、私の生涯を通じて、あの時ほど勉強したことはないというぐらい勉強しましたね」

1973年、第8回の国家試験に合格。社会に出ても先輩はほとんどいない。理学療法士、作業療法士どころか、「リハビリテーション」という言葉さえ業界で知られていない時代だった。

「まずは病院の中で知ってもらうことからですよね。それで手一杯だったので、どういうキャリアを積もうかなんて、サンプルも何もない。自分たちで作っていくしかなかった」

最初の患者は「五十肩」だった

今も忘れられない患者がいる。初めて担当した、いわゆる五十肩の患者だ。

「学校で教わった通り、コッドマン体操をやるわけですよ。当時はもうコッドマンぐらいしかなくて。結果が出ないんです」

後になって、腱板損傷だったとわかった。整形外科医からその説明はなかった。セオリー通りにやっても治らない。では、どうしたら治るのか。

理学療法って、治してなんぼじゃないですか。そのために患者さんも来るわけで。治療をやっていると自覚できれば、それがすぐにアイデンティティになる。ところが、自分たちがやっているのが治療なのか、治療でないのか、その判断がすごくつきにくかった。

「治すことができた」という実感がほしい。自分の責任で治療ができる道として、鍼灸の資格も考えた。2か所目の病院で6年ほど働き、次のステップを探して鍼灸の学校を調べていたとき、熊本に新しくできる養成校から「教員として来ないか」と声がかかった。

「自分で思い描いているキャリアメイキングとかじゃなくて、とても偶発的にやってきたなという感じがします」

── 病院で何年か働くと限界を感じて、外に飛び出していく。その流れは今も変わりません。最近は鍼灸や柔道整復の資格を取らずに、整体やピラティス、ヨガの分野で独立する人も増えています。

小川氏:そこでは「理学療法」という言葉は使えないんですよね。使っちゃうと法律に抵触するので。それがすごく残念じゃないですか。

「理学療法」を名乗れない場所で、理学療法士の力が使われている。この問題意識は、のちに小川氏が国の場で動かすことになる、一本の通知へとつながっていく。

33年の教壇人生と「学生を可愛いと思えなくなったら」

教員の誘いを、小川氏は最初、強く断っていた。学生に教えられるほどの力が、自分にあるとは思えなかったからだ。考えを変えたのは「(教員をしながら)学生として勉強したら」という一言だった。教えながら自分も学べるなら、と引き受け、赴任して2年目からは大学の夜間部にも通った。

「学生に教えたり指導したりする力なんて、何もなかった。そんな力はないぞと思いながら行ったんです。自分を伸ばすために、というのは、ちょっと不純なわけだけど」

教育の場には、結局33年間いた。

「僕にとってはすごく世界が広がりましたよ、学校って。教員何人かの力だけで学生を育てられるわけじゃないので、いろんな情報を調べなきゃいけないし、卓越した人たちの話を学生に聞かせたい。それで我々も学びを深められる。社会への視野を広げてもらったなという気がします」

一方で、全国ではその後、新しい養成校が次々にでき、学校の数が急に増えていった。

「学校は増やすべきじゃないと、僕は思っていました」

小川氏によると、当時の日本理学療法士協会会長、奈良勲氏も学校の急増に強い危機感を抱き、臨床実習の受け入れやスーパーバイザーを引き受けないよう会員に呼びかけた。しかし、現場の病院は経営判断で動く。「受けざるを得ないでしょ。だから功を奏しなかった」。

小川氏には、教員を続けるうえで決めていたことがあった。

"

学生を可愛いと思えなくなったら、もう辞めようと思っていたんです

── 小川 克巳 氏

「出来の悪い子ほど可愛いと言うし、成績は悪くても思いが強い子たちもいる。それが救いだと思っていました。でも、学生を可愛いと思えなくなったら、学生にとっても失礼じゃないですか。その時は身を引こうと」

3年制と4年制、両方を見て出した答え

2006年には、小川氏は勤めていた養成校を3年制から4年制に移すことにも関わった。理由は二つある。教えなければならない内容が増え、3年では物理的に収まりきらなくなったこと。そして、学生が受け止められる量が以前より小さくなってきたことだ。

4年にする以上、付加価値をつけたい。そう考えて、在学中にレクリエーションリーダーなどの周辺資格を取れるようにし、国際医療福祉大学と組んで学内にサテライトキャンパスを設けた。卒業時に学士も取得でき、そのまま大学院に進める道をつくろうとしたのだ。

ただ、養成課程はすでに1999年の指定規則改正で時間数から単位制に変わり、大学との単位互換が一部できるようになっていた。専門学校の卒業生が大学に編入するとき、1年生からやり直す必要はない。ダブルスクールの役割は薄れ、サテライトは大学院のみとした。

ところが、4年に延びたことで、小川氏は別の変化を感じ始める。

「3年制の時は(学ぶ期間が短いので)ガチガチにやっているじゃないですか。学生との距離がすごく近かった。それが1年延びたことで、ある意味ゆとりができて、学生との距離が遠くなったような気がしたんです。国家試験の合格率はそれほど大きくは変わらなかったけど、低下傾向ではあった。本当に4年にしたことが正解だったのか、自分の中で答えが出なくて」

そんなとき、3年制の養成校から声がかかった。もう一度、3年教育を見てみたい。そう思って移った。3年、4年、そしてまた3年。両方を経験した末の結論はこうだ。

次のステップアップを考えると、4年はすごく大事。ただ、専門課程としての3年間には、やはり捨てがたい魅力があると思いました。

紹介が「私の手前」で止まった夜

教員を続けながら、小川氏は職能団体の仕事にも深く関わっていく。熊本県理学療法士協会の会長を務め、日本理学療法士協会では理事、副会長を歴任した。その原動力には、ある屈辱の記憶がある。

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「向こうの人」と言われた日。理学療法士が政治を志すまで【参議院議員|小川 克巳】(前編)

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