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不真面目な高校生活から一転、今の礎を築く養成校時代【森岡周先生|畿央大学大学院健康科学研究科 主任・教授】

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リハビリテーション脳科学の研究・教育の第一人者として知られている畿央大学の森岡周教授。

 

青年期は母一人、子一人という環境で育ち、高校時代は遊びにバンドにサッカーにと勉強はそっちのけの生活を過ごしていた様子。現在の姿からは想像もできないが、自身でも「チャランポランだった」と語るほど、お世辞にも優秀な学生だったとは言えない時代を過ごしたという。


そんな青年期を過ごした森岡教授の、これまでの歩みから現在の活動に至るまでの経緯、そして今後への展望に関するロングインタビューを全8回に渡ってお送りする。

― インタビュー嫌いと聞いていましたが、なぜ受けていただけたのでしょうか?

 

森岡周先生 自分がまだ何も発見できておらず、明確なものを成し遂げていない段階で、人に参考になることを提供できるとは思えず、このような個人をフューチャーするものは、定年のときに、自分のこれまでの仕事を振り返り、その人生を統合あるいは受容する意味で受けるべき、と思っていました。

 

また、インターネットで提供される言語は、ある種、記号でしかなく、受け手側の意識によって変調されてしまいます。互いにおこる時間的な間や非言語の関係なくして、その人に対する本質の理解にはほど遠いと思ったからです。

 

しかし今回は、古巣の高知の時からの友人から直接電話をもらい、その友人の気持ちを考え、インタビューを受けることを決意しました。

 

理学療法士を目指した理由

― 理学療法士になったきっかけを教えてください。

 

森岡周先生 理学療法士になったのは今から25年前です。

 

決意したきっかけは、母が経営する飲食店に訪れていた当時のサッカー日本代表のチームドクターでもあった医師や理学療法士との出会いだったと思います。高校にも真面目に行かず、遊ぶことを中心に考えていた高校二年生の頃です。

 

高校では決して真面目な方ではなかったです(笑)。

 

高校時代、バンド活動をしていて、ベースを弾いていたのですが、そんな仕事にでもつけたらいいなあと、漠然と自分の進路を想像していた時期もありましたが、これ以上、母親に迷惑をかけられないと思い、母親の勧めで理学療法士への道を考え始めました。

 

理学療法士に対する憧れがあったわけでも、自身のケガなどがきっかけに強い意志が働いたわけでもありません。どちらかと言えば、流されるまま決めた進路でした。それから地元の専門学校に入学することになります。

 

パワハラ的経験から得た、意欲の芽生え

 

― 高知医療学院時代はどんな学生でしたか?

 

森岡周先生 急激に生活態度が変わるわけでもなく、1年次は欠席・遅刻の常習犯で、よく先生たちに呼び出されていました。転機となったのは、3年次の臨床実習で浜松医科大学医学部附属病院(以下、浜松医大)に行った時のことです。

 

ちょうどその頃、Jリーグ発足前でしたが、のちにJリーグで大活躍する選手もそこにいたりして、良い環境であるとともに、Jリーグが始まるタイミングで誘われたこともありましたが、当時は、高知を離れてまでスポーツに携わるというモチベーションが湧くことはありませんでした。

 

心の中では「病院で適当に働いて、おじいちゃんおばあちゃんと戯れて、給料をもらえたらいいな」くらいに考えていました。今考えると本当にどうしようもないですね(笑)。

 

ただ、浜松医大での実習は、現在の私の仕事に影響を及ぼしたことは間違いありません。私としてはインパクトのある体験をすることができました。

 

実習開始の前週から呼び出され、その日から複数症例の評価を要求されました。その合間にも、沢山の国内外の文献抄読を課題に出されることもありました。デスク上に文献や本のタワーがつくられたことを覚えています。

 

80%熱傷、股関節離断、障害受容ができていない16歳の脊損、原因不明の多発性神経炎の方々など学校で十分に学習できていない症例を延べ10例ほど担当させていただきました。

 

その際、症例報告の水準としては、学術雑誌に投稿できるぐらいと、さらっと要求され、毎日大学の図書館に行っては文献を読むことを繰り返していました。

 

最終的には「関連雑誌に投稿できるくらいの報告だ」とお墨付きをいただきました。この一見すると、今ではパワハラ的な経験から、物書き意欲が芽生え、今につながったと思います。

 

なお、勘違いされては困るので、パワハラを肯定しているわけでなく、あくまでも私の体験として、ということを付け加えておきます。

 

社会学や佛教学から得たヒント

― 近森リハビリテーション病院(以下、近森)に就職した理由はなぜですか?

森岡先生 実習で熱傷の患者さんを担当したときのことです。瘢痕拘縮による関節可動域制限を理学療法の技術を使って、少しでも改善させたいという強い想いが芽生えました。

 

近森の就職面接では、「熱傷を担当したいので急性期で仕事をさせてほしい」と強く語ったことを覚えています。さらに面接で「瘢痕拘縮に対するストレッチングや関節可動域運動の有効な手段を確立させる」と言ったことも覚えています。

 

今思えばすごく生意気でした(笑)。結果として、6名同期が入職したのですが、私だけ急性期に配置されました。

 

― 佛教大学社会学部に行かれたのは何か理由があったのですか?

森岡周先生 ありません(笑)。先輩の意見に流されるまま進学したように思えます。当時は、専門学校の単位は1単位も認められず、だから、4年間通学し、確か124単位程度取得する必要がありました。

 

病院勤務しながら、勤務を終え、土曜の夜高知をフェリーで出て、大阪に日曜の朝につき、京都まで通学し、丸一日授業を受け、夜フェリーで大阪を出て、月曜の朝に高知港につき、そのまま出勤するという日々でした。

 

社会学部を選んだ理由はなんとなくですが、自分のやっている仕事とかけ離れていないと思ったからです。社会福祉も学びますし、佛教大学ですから、佛教学もお坊さんから学べました。

 

今の仕事に通ずるところもあり、現在の研究テーマでもある“自己意識”については、この頃の学びが少なからずとも影響しているように思えます。

 

 

【目次】

第一回:不真面目な高校生活から一転、今の礎を築く養成校時代

第二回:自らアポを取り、パリ留学へ

第三回:熱傷にはじまり、腎不全、バイオメカニクス、そして脳研究へ

第四回:畿央大学前学長の生き様に憧れ、大学教員の道へ

第五回:共に楽しむことこそ、教育の原点

第六回:心身の揺らぎを忘れたとき、人間はロボット・AIにとって変わられる。

第七回:異業種、異世代、異性とのコミュニケーションが脳を育てる

最終回:生きる

 

 

森岡 周 先生 プロフィール

1992年 高知医療学院理学療法学科卒業

1992年 近森リハビリテーション病院 理学療法士

1997年 佛教大学社会学部卒業

1997年 Centre Hospitalier Sainte Anne (Paris, France) 留学

2001年 高知大学大学院教育学研究科 修了 修士(教育学)

2004年 高知医科大学大学院医学系研究科神経科学専攻 修了(特例早期修了) 博士(医学)

2007年 畿央大学大学院健康科学研究科 主任・教授

2013年 畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター センター長

2014年 首都大学東京人間健康科学研究科 客員教授

 

畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター HP: http://www.kio.ac.jp/nrc/

森岡 周先生SNS

Facebook:https://www.facebook.com/shu.morioka

Twitter https://twitter.com/ShuMorioka

 

<2017年3月現在の論文・著書>

英文原著73編(査読付)、和文原著100編(査読付)、総説72編(査読無)

著書(単著・編著)15冊、(分担)20冊

http://researchmap.jp/read0201563

 

(撮影地、撮影協力:畿央大学ニューロリハビリテーション研究センター内)

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