概要
多くの既存研究は、高齢者の就労継続が健康に良いことを示唆していました。しかし、既存研究では、健康な人ほど就労継続しやすいというバイアスが十分に考慮されていない可能性があります。京都大学大学院医学研究科 佐藤豪竜 助教らの研究グループは、日本を含む 35 か国の 50~70 歳の 106,927 人を約 6.7年追跡し、引退と心疾患リスクの関連を調べました。因果推論の手法を用いてバイアスを取り除いた結果、引退した人は、働き続けている人よりも心疾患リスクが 2.2%ポイント低いことが初めて明らかになりました。また、引退した人は、身体不活動のリスクが 3.0%ポイント低いことも示されました。
現在、各国で年金の支給開始年齢の引上げや高齢者の就労継続支援が行われていますが、本研究の結果は、引退の遅れは必ずしも健康には良くないことを示唆しています。働く高齢者が増える中で、運動などの健康づくりがますます重要になると考えられます。
本研究成果は、疫学分野のトップジャーナルである「International Journal of Epidemiology」(オンライン)に、5 月 8 日(月)に公開されました。
背景
多くの既存研究は、高齢者の就労継続が健康に良いことを示唆していました。特に、心疾患は高齢者の主な死因の一つですが、ヨーロッパの研究は就労継続が心疾患リスクを下げる傾向を示す一方で、アメリカの研究では就労継続と心疾患リスクの間に明確な関連は見られず、これまで一貫した結果がありませんでした。こうした結果のばらつきの背景には、調査が行われた国の違いや用いられた統計手法の違いがある可能性があります。また、既存研究では、もともと健康な人ほど就労継続しやすいというバイアスが十分に考慮されていない可能性があります。このため、本研究は、日本を含む 35 か国のデータを使用し、因果推論の手法を用いて引退が心疾患とそのリスク要因に与える影響を調べました。
研究手法・成果
本研究は、35 か国の 50~70 歳の 106,927 人を約 6.7 年追跡したデータを分析しました。アメリカの Healthand Retirement Study と、日本、ヨーロッパ諸国、メキシコ、コスタリカ、中国、韓国でそれぞれ行われた姉妹調査のデータを統合して分析を行いました。日本に関しては、Japanese Study of Aging and Retirement のデータを用いました。また、健康な人ほど就労継続しやすいというバイアスを取り除くため、操作変数法と呼ばれる因果推論の手法を用いました。さらに、固定効果によって、個人の性別や遺伝子、各国の医療制度や労働市場の違い、社会・経済状況の時系列トレンドなど、観察できない様々な要因の影響も考慮しました。分析の結果、引退した人は、働き続けている人よりも心疾患リスクが 2.2%ポイント低いことが初めて明らかになりました。また、引退した人は、身体不活動(中高強度の運動の頻度が週1回未満)のリスクが 3.0%ポイント低いことも示されました。男女ともに引退と心疾患リスク低下の関連が確認されましたが、女性の間では引退と喫煙率の低下の関連も観察されました。教育年数が高い人の間では、引退した人の方が脳卒中や肥満、身体不活動のリスクが低いことが分かりました。さらに、デスクワークだった人の間では、引退した人の方が心疾患や肥満、身体不活動のリスクが低い傾向にありましたが、肉体労働者の間では引退した人の方が、肥満リスクが高い傾向にありました。
波及効果、今後の予定
現在、各国で年金の支給開始年齢の引上げや高齢者の就労継続支援が行われていますが、本研究の結果は、引退の遅れは必ずしも健康には良くないことを示唆しています。働く高齢者が増える中で、運動などの健康づくりがますます重要になると考えられます。
研究プロジェクトについて
本研究は、日本医療研究開発機構 (AMED; 22rea522107h0001)、 日本学術振興会(20K18931,23H03164)、医療科学研究所の助成を受けて行われました。
用語解説
「操作変数」とは、引退と強く関連するものの、心血管リスクとは直接関連しないような変数のことです。例えば、くじ引きでランダムに引退する人と就労継続する人を割り当てたとしたならば、くじ引きの結果は引退と強く関連するものの、心血管リスクとは直接関連しないことから、操作変数とみなすことができます。しかし、このような実験は現実的でないため、本研究では各国の年金支給開始年齢を引退の操作変数として用いました。
「固定効果」とは、時間によって変わらない個人や国の属性のことです。個人と国の固定効果を回帰分析モデルに含めることで、個人の性別や遺伝子、各国の医療制度や労働市場の違いなど、観察できない属性も含めてその影響を考慮することができます。さらに、本研究は、調査年の固定効果に加えて、国と調査年の固定効果を乗算したものもモデルに含めることで、各国の社会・経済状況の時系列トレンドの違いも考慮しています。
研究者のコメント
これまで高齢者の就労継続は健康に良いものと信じられてきました。しかし、今回の研究によって、引退した人の方が、働き続けている人に比べて心疾患リスクが低いことが初めて明らかになりました。この結果は、引退によって仕事のストレスから解放されることや、運動する時間が増えることと整合的です。ただ、私たちは、意欲のある高齢者が働き続けることを否定するつもりはありません。高齢化が進展する中で、高齢者が働き続けられる環境を整備することは重要ですが、同時に運動などの健康づくりも大切になってくるでしょう。
書誌情報
タイトル:Retirement and cardiovascular disease: a longitudinal study in 35 countries
著 者:Sato K, Noguchi H, Inoue K, Kawachi I, Kondo N.
掲 載 誌:International Journal of Epidemiology DOI:10.1093/ije/dyad058
参考図表
FE は操作変数法を用いていないモデル(固定効果モデル)、FEIV は操作変数法を用いたモデル(固定効果操作変数モデル)です。操作変数法を用いてバイアスを取り除くことで、引退と心疾患リスクの関連の正負が逆転しています。
詳細▶︎https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2023-05-29
注)プレスリリースで紹介している論文の多くは、単純論文による最新の実験や分析等の成果報告に過ぎました。 さらに研究や実験を進める必要があります。十分に配慮するようにしてください。