箱根駅伝走りたくて大学入ったのに、故障で走れないのは一番辛い
私が理学療法士になろうと思ったのは、中学生の頃に母親が両下肢不全麻痺になりリハビリの世界を知ったことがきっかけです。ただその時のリハビリ担当は父なんです(笑)。病院の医師・理学療法士からは「もう歩けるようにはならない。自宅を改修して下さい。」と言われて、「だったら病院にいても意味がない」ということで父が自宅に戻したんですよ。
それでうちの畑で母の両手を持って毎日毎日歩く練習していたら歩けるようになったんですね。人間の可能性って本当にすごいと思いましたし、その可能性を信じた父と母にリハビリにおいて最も大切なことを教わりました。
そして私が理学療法士になったらもっと患者さんの可能性を考えられるようになりたいとこの時思いました。当時は箱根駅伝で活躍したい想いが強くあったため、理学療法士の学校ではなく、大学に駅伝をきっかけに入学しました。
将来は箱根駅伝を経てもっと上にいきたいと思ってたんです。しかし相次ぐ故障に悩まされ練習も満足にできませんでした。箱根駅伝走りたくて田舎から出てきたにも関わらず、ろくに走れないのでは何をしに大学に来たのだろう。
両親になんて言えばいいんだろうと路頭に迷うこともありましたね。大学で箱根駅伝を目指す選手たちはそれにかけています。故障で競技を断念するのは一番辛いのです。その頃から後輩たちには私と同じ思いをしてほしくないと思うようになりました。
私の学生時代は治療と言えば鍼灸マッサージでしたが、私は幸運にも入谷先生と出会ったこともあり、なぜそこが痛くなるのだろう?と疑問を持つようになりました。そのため、元々母のことで理学療法士に興味を持っていたこともあり、大学卒業後に理学療法の専門学校に行こうと決意したんです。
何も出来なかった病院時代
資格とって最初に就職したのは、松戸整形外科病院でした。臨床でろくに結果が出せないにも関わらず、臨床以外の業務も十分にこなせず、上司によく指導を受けましたね。知識や技術だけでなく、社会人としてのあり方をそこで教えていただきました。
その経験が現在も非常に役に立っています。本当に感謝しています。また、その頃から休日を利用して母校の神奈川大学陸上競技部で先輩のトレーナーについて選手に関わらせていただく機会を得たんです。もちろん何も役に立たないのでボランティアでお手伝いさせていただきました。
3年目くらいの時ですかね「もっとその場で局所に対するアプローチ方法が欲しい」と思い、夜間の鍼灸の学校に通うことを決意しました。松戸整形外科病院には夕方診療があり学校に通うことが困難であったため、縁あって現在勤務しております株式会社PNF研究所に転職させていただきました。
株式会社PNF研究所は自費診療で給与は歩合制ですから、自分が出した結果がそのまま返ってくるという意味ではやりがいはあります。ただ、当然最初はそううまくはいきませんでしたよ。
結果を出すことが当たり前とされますし、会話がうまくいかなかっただけで次の予約が入らないなんてこともあり落ち込む日ばかりでした(今もですが・・・)。ただ、こういった厳しい環境でやっていくことがとてもプラスになっています。
選手の今とこれからを考える
※長距離選手では痛みの訴えの他に、「右足に力が入らない」ですとか、「なんかうまく進まない」といったような訴えも多いんです。なので、その原因となる動きと因子を説明して、選手に理解してもらうということを意識しています。
選手のほとんどは今ある痛みや疲労をとってもらうことに意識がいって、なぜそこが痛くなったのかなどの根本的な原因を考える選手が少ないんです。今ある現象がなぜ起こり、どう改善していったらよいかを考えられる選手になってほしいと思っています。
特に卒業後に実業団で走るには自己管理能力が必要ですし、彼らが指導者になる場合にもそういった視点を持ってほしいと思うからです。ただ、説明し過ぎるとそればかり気にしてしまい力んでしまう選手もいるので、選手の性格も把握してどこまで説明するのか本当に難しいです。
もちろん治療結果を出し続けていかないと使っていただけないので説明だけでなく確かな結果を求められるという点は厳しいですね。
太田輝之先生経歴
【資格】
理学療法士、鍼灸師
【所属】
PNE研究所 御茶ノ水 http://www.pnf-tc.jp/index.html
NPO法人 日本PNF協会 理事兼事務局長
【経歴】
松戸整形外科病院勤務
現在PNF研究所