みなさんは、「風の谷のナウシカ」をご覧になったことがありますか?
ナウシカがペジテの人たちに捕らえられた時に「お願い、アスベル。みんなに伝えて。蟲たちは森を守ってる。森は世界を守ってるんだって!」と叫んだシーンを覚えていらっしゃいますでしょうか?
ナウシカは風の谷の城の地下で瘴気を出すはずの森の木も、きれいな土と水で育てれば瘴気を出さないということを発見し、アスベルとともに腐海の森の底で瘴気を出すはずの木々によって土や水を浄化していた場面に遭遇し、その神秘に思わず涙します。
人々は蟲や瘴気を出す森を恐れていたけれど、実はその森が世界を浄化しているということ。蟲はその森を守っているという事実を知らずに、表面だけを見たときには人々を脅かすように見える蟲や森を滅ぼすことが人々の暮らしを守ることだと信じている良心的なペジテの人たちに向かって、ナウシカが冒頭の言葉を発するのです。
ナウシカがあんなにも必死になって叫ばずにいられなかった気持ちが今の私にはよくよくわかります。
ナウシカの世界は、ファンタジーとして描かれていますが、同じことが違うカタチで今現実の私たちの世界でも起こっていることを強く感じています。
表面的に事象を捉え、表面的に対応しようとする。
「〇〇というBPSDのある認知症の人がいるんですが、どうしたら良いでしょうか」このようなパターンの質問をあちらこちらで受けますし、さまざまな本やネットでもこのようなパターンでのオススメを見かけることがよくあります。
けれど、このようなパターンで質問するということは、臨床もこのようなパターンで遂行している可能性が高いと言わざるを得ません。
たまたま「当たる」ことはあるかもしれませんが、疾患も障害も能力も特性も異なる認知症のある方に対してパターンを当てはめるような方策では限界があって当然だと考えています。
だとしたら、問いの設定、質問の仕方を私たちが変更すれば良いだけなのではないでしょうか。
「〇〇という事象に投影されているAさんの障害と能力は何なのでしょうか?どうやって判断し、得られた情報をどう活用したら良いのでしょうか?」
認知症のある方のBPSDや生活障害は、能力が単に能力が低下して起こることではありません。確かに能力は低下するけれど保たれている能力だってあります。
保たれている能力で何とかしようとするけれど疾患特性により不合理な現れ方をしてしまうだけなのです。だとしたら、不合理な現れ方をしている能力をより合理的に発揮できるように援助すれば良いだけなのだと考えています。
この私の考え方は、どんな状況にも通底する考え方です。
食べることが困難になってしまう方、骨折術後でリハが必要なのに拒否する方、ご自身で更衣することが難しくなってしまう方、かつて得意だった趣味が病状進行に伴い遂行することが困難になってしまった方。
どのような状況の方でも考え方は同じです。
Activityの選択をどのように考えていったら良いのか
埋もれていて表面に見えなくなっているだけの能力を活用するという観点に立って今までさまざまな記事を書いてきました。
訪問や老健で勤務していると、リハビリテーション3職種の役割分担が明確なところもあれば、リハ職として担当性になり職種に関わらず、可能な範囲で代替することを求められる場合も少なくないのではないでしょうか。
その時にPTやSTの役割は比較的明確に言語化されているように感じますが、OTについて、あるいはActivityについて明確な言語化が為されにくくて困る…ということが現場で起こっているのではないでしょうか。
厚生労働省はICFの「活動と参加」に焦点化したプログラムの立案と実施を明確に求めるようになってきました。「活動と参加」の設定の仕方もさまざまあるでしょうけれど、Activityについて無視することはできません。
ところが、Activityの選択をどのように考えていったら良いのか、OTであっても明確に言語化して教えてもらったことのある人は少なくないのではないでしょうか。
やりたいことや希望を尋ねても答えが返ってこない方も大勢います。
返ってきた答えやかつて趣味として熱心に取り組んでいたことが今はできなくなってしまった方も大勢います。
同じコトを違うカタチで実施するというのは認知症のある方にとって二重の意味で至難のことです。ひとつには手続き記憶が残りやすいし、もうひとつは新しいことを覚えたくても疾患特性のために覚えられないからです。
そうすると身体障害のように工程を工夫して、実施しやすい工夫をするという方策が認知症のある方には通用しません。
Occupy(心をいっぱいに満たす)
また難しいことやできないことに対して「一緒にやるから大丈夫」という声かけで工程を説明しながら行ったり実際の作業を手伝ったりしていたら、突然怒り出されたりすることだってあります。
このような関わりはセラピストの善意に基づくものであったとしても、結果として認知症のある方にとって最も困難な同時並行課題を求めてしまっているからです。
怒り出さないにしても、工程の1つ1つをセラピストの声かけのもとに実施してもらうということは下手をすると、認知症のある方の手足をセラピストの脳が動かしているという状況を結果として生み出しかねません。
そのようにして作られたものがたとえ仕上がりが美しかったとしても本当に満足感の得られるものなのでしょうか。
Occupy(心をいっぱいに満たす)に値するような「場」の創造と成り得ていると言えるのでしょうか。
ある程度の臨床経験のある方は、かつて「寝たきり老人ゼロ作戦」が発動された時に、多くの現場で寝たきり老人は確かに減ったけれど、そのかわりに座らせきり老人が増えたという体験を見聞きしたことがあると思います。
同じことが違うカタチで起こらないように願っています。
ICFの「活動と参加」に焦点化した治療計画の立案と実施に応えようとして、見た目何かしている、けれどその場はOccupyとはほど遠いものである。そんなことになりませんように。。。
そう祈っています。
続くー。
お知らせ
「月刊よっしーワールド」
▶︎ http://kana-ot.jp/wp/yosshi/
書籍「食べられるようになるスプーンテクニック」
▶︎ http://www.nissoken.com/book/
【セミナー】
▶︎「認知症のある方への評価から対応まで」
▶︎「若年性認知症のある方への対応と支援で考えておくこと」
▶︎ 日総研「BPSD・生活障害の改善とスプーンテクニック」
佐藤良枝先生プロフィール
1986年 作業療法士免許取得
肢体不自由児施設、介護老人保健施設等勤務を経て2010年4月より現職
2006年 バリデーションワーカー資格取得
2015年より 一般社団法人神奈川県作業療法士会 財務担当理事
隔月誌「認知症ケア最前線」vol.38〜vol.49に食事介助に関する記事を連載
認知症のある方への対応や高齢者への生活支援に関する講演多数