映画会社から理学療法士の道へ
——— 理学療法士になる前、ゴジラの映画会社に勤務していたと伺ったのですが、本当ですか?
宮森先生:しっかりした目標もなく、高校を卒業して、ただ「東京に行きたい」という理由で会津若松から上京しました。
美術系は好きだったので、東京に行く口実にした渋谷のデザインスクールには合格したんですが、学校にはまじめに行かず、世田谷の東宝砧撮影所でアルバイトをしたんです。
最初は日雇いのアルバイトから始まって、次から映画の組に入ってスタジオの掃除やドア係、監督さんたちの椅子運びなんかしていました。映画の撮影をそばで見るのは本当に興味津々でしたね。
結果として1年後にはデザインスクールを辞め、東宝映像というゴジラ映画の会社で働かせてもらうことになりました。
撮影所ではいろいろな方たちに可愛がってもらいました。監督さんや助監督さんたちもそうですが、カメラや録音技師さん、セットを作る方たち、合成室や特殊美術など、その人たちの仕事を見ているだけで楽しかった。
ある日、撮影所の倉庫に一人で入ったとき、実際に映画で使われた本物のモスラが吊ってあったんです。想像していたより大きかった。そのときはびっくりして「ウヮー、すごい!」と声を上げてしまいましたよ。
撮影所の一番の思い出は「日本沈没」という映画ですかね。たしか大入りボーナスが出ました。
プロデューサーの方と一緒に原作者の小松左京さんにも会える機会があって、このSFを書き始めたときの構想をご本人から聞いたんです。
5年ほどその映画会社に勤めていたんです。辞める半年ぐらい前に上司から私に「これから何やりたい? 君の希望があればその部に紹介してあげるから。」と言われました。
映画会社の仕事は専門職の集団です。正直そのときは本当に悩みました。
自分は今まで何をやっていたのか、これから何がやりたいのか、5年経っても自分で決められないんですね。
ちょうどその頃、カリフォルニア大学のヴィクター・パパネックという先生が書いた「生きのびるためのデザイン」という本を読んで感銘を受けました。
本の中で「これからやらなければいけないことがいくつかある」と。そのひとつに「障害を持った人たちの生活用品や道具を作る仕事」がデザイナーに求められる仕事であると書かれていました。
その仕事をするためには、基礎から何かもう一度勉強し直そうという気持ちになりました。
ちょうどそのときに理学療法士の夜間の学校が開設されたことを知り、受験してみたら合格したんです。その結果、理学療法士の世界に24歳で足を踏み入れることになりました。
就職は恩返しの気持ちから
——— 卒後は、どのようなところで働かれたのですか?
宮森先生:夜間でしたので、合格したら昼間働きながら学校に通おうと思い、病院のリハビリ助手の仕事を探したんですが、どこに行っても断られました。
結局、気落ちしている私に面接された先生が当時東京の理学療法士会の会長をされていた細田多穂先生の所に行くように言われ、細田先生に紹介されてある老人ホームに雇ってもらいました。
そのホームに卒業後も就職することになったんですが、最初はとにかく働かなければ学校にも行けなくなるという思いだったんです。
働き始めるといってもお年寄りのことは何も知りません。細田先生からは「起きられない人は1日1回起きてもらって、身体を動かせない人には1日1回肘や肩の関節を動かしてあげて」と関節の動かし方を指導してもらいました。
最初はお年寄りの体に触るのもヒヤヒヤでしたね。
ところが、施設のお年寄りたちは「リハビリは痛くて辛いからイヤ」と言われたんです。
介護スタッフの人たちもリハビリというと悪い印象ばかりで、何か冷たい雰囲気でした。
後から判ったんですが、私が入職する前に来られていた非常勤の先生がリハビリと称して肘や肩を一生懸命動かしておられたんですね。その先生の来た日はお部屋から「痛―い、痛―い」と悲鳴が聞こえて、みんな震えていたそうです。
拘縮のある人が多かったのでご本人は頑張られていたんですが、スタッフの方たちはあまりに痛がるのを見て、かわいそうに思っていたようです。そんな雰囲気の中で仕事が始まりました。
1年生の頃はクラスメイトも特別養護老人ホームにたくさん働いていたんですが、卒業したときに就職したのは私だけでした。
当時の学科長の先生からも反対されましたよ。高齢者に対するリハビリテーションというのも今ほど盛んに行われているものではありませんでしたからね。
当時、都内には特別養護老人ホームが100カ所くらいありましたが、理学療法士が就職している施設は私が3ヵ所目でした。
私は今のような高齢社会になることを見越してこの分野に入ったわけでありません。最初は学生時代の「恩返し」という思いの方が大きかった。
それに卒業する年には施設が新しく建て替えられることになりましてね、150㎡のリハビリテーション室を作ってあげると言われたので、少し気持ちが弾んでいたんですね。
大事なのは単純なことの繰り返し
——— 働き始めた頃のエピソードを紹介していただけますか?
宮森先生:三宅島が噴火したときがありました。その時、全島民に避難指示がでて竹島桟橋に非難されてきました。
島には寝たきり状態の方がいて、私が働いていた特別養護老人ホームは3名の方を受け入れることになりました。
その方たちは「寝たきり」というお話でしたが、少し練習していくうちに杖や歩行器で歩けるようになられたんです。
離島はリハビリテーションの活動も薄くて、脳卒中になられると家族は「寝ていなさい」ということになっていたようです。
歩けるようになって島に戻られる方からお別れのときに「噴火は怖かったけど、こっちに来て歩けるようになったから悪いことだけじゃなかったね」と言ってもらいました。
うれしかったですね。
その時の経験で、高齢な人たちはご本人の希望に添ってdis-useを少しずつ練習していくことが大切なんだと思うようになりました。
私がしていたのは難しいことは何もしていません。
毎日々話をしながら、杖を合わせて、関節を動かして、歩く練習をお手伝いしていただけですよ。
大事なのは単純なことや繰り返しの仕事に自分が負けないように続けていくことだと思いますね。
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- *目次
- 【第1回】映画会社から理学療法士の道へ
- 【第2回】特養から設計事務所に転職した理由
- 【第3回】東京ディズニーランドを学校教育に
- 【第4回】ドイツで感じた“物に対する考え方”の違い
宮森 達夫先生経歴
1980年 専修学校 社会医学技術学院 理学療法学科 卒業
1980年 理学療法士免許
1977年3月~1990年3月 社会福祉法人博仁会
特別養護老人ホーム なぎさ和楽苑及びケアセンター勤務
1990年3月~1998年3月 株式会社 福祉開発研究所(一級建築士事務所)
企画部 室長 ~ 研究調査部 部長
1998年4月~2000年11月 独立し、有限会社福祉計画を営む
2000年12月~2004年3月 社会福祉法人 ウエルス東京
特別養護老人ホーム ウエル江戸川 施設長
2004年4月 日立製作所グループ 株式会社日京クリエイト 入社
2004年9月 日立製作所グループ 有料老人ホーム サンクリエ本郷 副支配人
*2015年 (株)日立ビルシステムから(株)リゾートトラストに買収
2011年8月 定年退職
2012年1月 学校法人アゼリー学園 入職
2013年4月 東京リハビリテーション専門学校 学校長 現在に至る
【著書(共著)】
他多数。