私たちの師匠は、患者だよ
現在の理学療法士(以下PT)は、質というよりコストとして考えられているという気がしますね。そうすると病院にとって一番いいPTは一所懸命頑張って治せないPTがいい。「患者さんをよくすると病院はつぶれるよ」というんです。
患者さんをよくしなくていいとなれば何がつぶれますか?“PTの心がつぶれます”。そもそも、リハビリテーションっていうのはですね、日本へ来て治療の一分野として定着したにも関わらず治療者として“教育”されてこなかったんですね。
実際には機能の改善を求められる社会ですから、やはり治療の一分野として、私たちにその能力を要求してくるだろうと思います。私自身長い間、異端者って呼ばれていたんです。何処も相手にしてくれなかったんですよ。
でも、今若い方が興味を示してきてるんです。 確かにこれはエビデンスがない。なぜエビデンスがないかって言われると、動き自体がコンマ数ミリしかないんですよ。これを拾う機械がない。私の技術っていうのは、患者と言われる方達が身体で反応して示してくれたから今のものが出来上がったんです。
一番の私たちの師匠は患者なんです。些細な訴え、愚痴なんかも技術を磨く上では宝の山なんですよ。そういうことをやって、自分の技術ってものを築いていくんではないでしょうかね。
人それぞれ色んな見方があっていいんだと思います。 それで結果で淘汰されるべきだと思います。結果で淘汰されればあきらめつくじゃん!(笑)エビデンスとか何とかがないって言われるとしゃくだけど。
とにかく今は耐える。いつかあなたたちの時代が必ず来るから
当初この本を書くとき、「この本は、PTには売れないよ」って言ったんですよ。むしろ柔道整復師や整体師には売れるって。あの人達はとにかく結果を出さなければいけないんですよ。
そうじゃなきゃお客さんが来てくれませんからね。そういった意味では、あの人達の世界はシビアですよ。PTの職場で一番楽なのは何処か?それは病院ですよ。
でもですね、PT自身は病院が一番大変だと思ってるんですよ。指示があるんだからその通りやってりゃいいのに。それなのに一番大変だと思ってるからぬくぬくと何もしない。
かつてマッサージ師がPTによって病院を追われたときのようにPTも病院を追われかねないよ、このままじゃ。まぁ今はこんな時代だからですね、能力のある人、頑張った人っていうのが報われる時代が来る、と私は思っています。
極限まで自分を高めていった人と何もしてこなかった人というのが同じ給料をもらうという事は不平等ですよ。 そういう社会っていうのは活性がなくなるって。今言えることは、「技術っていうのは滅びないんだよ。」と言って私は、歩いて回ってますけどね。
時代が人を求めるんですよ。だから昭和40年頃ってのは、PTを求めたんですよ。 そして、PTが出来たときっていうのは劇的に、片麻痺の人は歩けるようになった。ただ今度はニーズが変わったんですよ。QOLっていうやつです。
もっと綺麗に動きたいって。でもそんなことやっても保険だから変わらない。そういった能力を病院が期待するわけでもない。開業したってその道は閉ざされている。 多くの有能なセラピストは、今の世の中に閉塞感を持っているんですよ。自分の能力を発揮する場面がない。
だけどその人たちが必要とされる時代が必ず来る。絶対に来る。だから今頑張ってなよ。とにかく今は耐えているしかない。と私は信じてるんですよね。10年か20年の間には来ますよ。社会の変化の早さは10年っていうとものすごく変化しますからね。
これから療法士を目指す学生へ
まずは、給料は高くならないよ。(笑)だからおもしろい。
もし私が給料の3倍もらっていたら、病院のいうこと聞いて、患者のいうこと聞いて、さっさと定年迎えてたよ。給料が安いから、いうこと聞かなかったし好きなことやってたし、クビになるのはちっとも怖くなかった。
だから、どうすればおもしろくなるかを考えていたし、自分が生きておもしろいと思えるような職業につきたいのであればいいよ。 おもしろくすることのできる職業で、おもしろい職業ではない。自分次第ですね。
就職が100%だからっていう理由だけならやめたほうがいいですね。安定は普通の職業からしたらあるかもしれませんけどね。安定すると不安になるんですよね。制度的には、医師の指示のもとというのが私たち理学療法士の仕事です。
今現在では、医者が忙しいから、その仕事の一部を受け持っているような仕事になってしまっていると思うんですよね。今は医者にできるような仕事を下請けしてPTがやっている。忙しいんだから彼らは。つまり、命令されてやってるんですよ。それじゃダメなんです。お願いされてやる職業にならなきゃ。
山嵜勉先生経歴
昭和33年、東京女子医科大学病院物理療法室入職
昭和50年、昭和大学藤が丘病院リハビリテーション部入職
平成2年、昭和大学リハビリテーション病院リハビリテーション部兼務
平成9年、昭和大学藤が丘病院リハビリテーション部
昭和大学リハビリテーション病院リハビリテーション部定年退職 定年退職後は非常勤として、海老名病院、横浜旭病院、横浜新都市脳神経外科病院、新葛飾病院、等に勤務