【存在肯定と生きる希望】あの方に必要なリハビリテーション支援はなんだったのか 【田島明子】

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第353回のインタビューは、湘南医療大学 保健医療学部リハビリテーション学科教授の田島明子先生。社会モデル的発想のリハビリテーション支援について伺いました。

「存在を肯定する」世の中だったら…

 

ー 先日、ALSの方の嘱託殺人の事件がありました。その方にどのような支援があればよかったのか、作業療法士の視点からご意見をいただけますか?

 

田島先生 お仕事を熱心に取り組まれてきた方とのことで、ALSになって仕事という生きがいを失われた。そして、病とともに意欲をもって生きる生活の方途を見つけだすことができなかったのではないかと感じます。


その方が「自身の病や障害を肯定的に受け止める」のは、その方に過大な負荷が生じると思います。周囲が積極的に「生きろ」「生きてくれ」と言える他者や社会になれたら/なったらよいなと思います。お話させて頂いた難病疾患の方のなかには「同じ病を持つ仲間に支えられた」「自分も支えてもらったように、同じ病を持つ人を支えたいと思い、気持ちが前向きに変化した」とおっしゃる方もおられました。


そのような周囲や必要としあえる仲間との出会いは「病や障害とともに生きよう」という希望の見える力になるでしょう。支援者としては、そういう人と人との偶然にゆだねられた素晴らしい出会いの可能性を担保できるようなコミュニティをデザインできたら最高ではないかと思います。

 

ー なるほど。お亡くなりになられたALSの方は、介助者を見つけるご苦労も負担になっていたようですねそのあたりは正直申しまして当たり外れがあるでしょうし、現状は介助を必要とする人がよい介助者に出会えるかは運任せになってしまっていますね。

 

田島先生 そうですね。その方と信頼関係を構築できる介助者の方を見つけるご苦労があったり、また、信頼関係の構築が難しいというご経験自体、生きることのつらさに繋がったりしますね。生活と介助が表裏一体な重度の障害をお持ちの方ほど、息の合う介助者を見つけだすことは死活問題となるでしょう。そういう意味で、介助者探しという面において、たしかに、まだまだ、社会的な配慮が行き届いていないような気がします。

 

現状としては、24時間の介助を受けることができるようになったりと、量的な整備は進んでいるようですが、さらに、人と人とのマッチングといった質的な面にも支援の目を向ける必要があるのかもしれないですね。

 

大学院の修士課程で指導させていただいた國塚裕太さんという作業療法士が、ALSの方の社会参加の支援の在り方を研究していて、先行研究から、現状は、支援が点在化しがちであることを明らかにしています。つまり継続的な支援ができづらい状況でもあるようです。

 

人の気持ちはその時々で揺れ動きますから、揺れ動きに寄り添った支援をしていけると、今回の事件のような悲しい結果に至ることを未然に食い止めることも可能になるかもしれないとも思います。

 

「障害の社会モデル」を志向したい

 

田島先生 「障害」の捉え方として、「個人モデル」と「社会モデル」という対照的な捉え方があります。「個人モデル」というのは、個人の側に問題を発見し、改善を目指すといった視点です。「社会モデル」は、社会の側に問題を発見し、そちらの改善を目指すといった視点です。

 

ちなみにICFは、それらの統合モデルとされていますが、かならずしも社会の側に問題や責任を設定するという「社会モデル」の視点を持っているわけではないと私は考えています。つまり「個人モデル」をベースにしているというのが私の見立てです。

 

「個人モデル」の問題として、リハビリテーションの対象者の方を例にとると、主には治療によってその方の身体や精神の能力を向上させることで、対象者の方が社会に適応できることを目指していくモデルになりますので、対象者に対して負担を強いる側面があると思います。

 

つまり、障害というものは時に進行し、自分の思うままにならない身体を生きることを余儀なくされることが当然あるなかで、その状態では社会復帰や在宅生活が不可能であると印籠(いんろう)を渡されてしまったら、治療によって身体や精神の能力が向上できなかったその人に責任があるというのと同じことです。

 

そもそも印籠を渡すのは誰でしょうか。印籠を渡す誰かに、その考え方を変えてもらえたら、その人は身体や精神の能力が向上できなかったとしても、社会復帰や在宅生活が可能になるかもしれない。印籠を渡す誰かにその考え方を変えてもらうというのが「社会モデル」の発想と言えるかもしれないです。

 

つまり、「社会モデル」の発想をベースにリハビリテーション支援の在り方を再構成できたとしたら、従来リハビリテーションが重視してきた「個人モデル」の限界を補いつつ、対象者の方が、ご自身を肯定的に受けとめ、自由にのびのび生きられるような社会の創造にリハビリテーションが貢献できる可能性が高まるのではないかと思います。

 

それは、対象者の方にとってみれば、「個人モデル」でご自身の身体や精神の能力獲得が行える以上に、生きる力に直結する強力な支援になるのではないかと考えています。そもそもリハビリテーションはそのような対象者の方の姿を目指しているのではないでしょうか。

 

だから「障害受容」を使うのはやめたい

 

田島先生 「障害受容」という言葉ですが、主語は障害のあるご本人ですよね。つまり、障害にまつわる否定的な経験やそれにまつわる負の感情を、ご本人が受容する/しないということを表現する言葉なんですよね。ですから、この言葉こそ、リハビリテーションが「個人モデル」を発想としていることの証左だと思っています。

 

私自身が「障害受容」という言葉の使われ方に違和感を覚えたのは、障害を持つ人の生活や就労を支援する施設に勤めていたときでした。対象者の方が「一般就労したい」と支援者に希望を伝えると、「障害受容ができていない」とし、支援者が対象者の方の希望を否定するという場面に対してでした。

 

こうした場面でも「個人モデル」の発想が影響していることがわかります。対象者の方が一般就労可能なまでに能力をアップさせることができなかったこと、そして、社会の側に受け皿がないことの正当化のために「障害受容」という言葉が使われているようにしか私には感じられませんでした。

 

リハビリテーションは、そもそも対象者の方が、ご自身の人生をよりよく創造する過程を支援するポジションだと思います。ですからその過程は、対象者の方の、障害や病を持たれて揺らいだ実存をどうにか支えられるものでありたいと思います。

 

そのためにも、人の権利を具現化し、対象者の方が、ご自身を肯定的に受け止めつつ社会に存在し続けることができるような、「社会モデル」に根差したリハビリテーションの実践モデルを構築していく必要があるように思います。

 

また、「障害受容(ができていない)」という言葉を療法士が発するとき、対象者の方とどのようなコミュニケーションが成り立っていたかも熟考したいところです。医学・医療は客観主義的な近代科学を礎に成長してきた実践学だと思います。

 

その弊害は、実践のなかで療法士の人間性を専門性の鎧に隠し、対象者の方の問題点を探し出す探知機のようになってしまうことではないでしょうか。実際のところは、対象者の方は、療法士の人間性とコミュニケーションを取ろうとしているはずです。それは、対象者と療法士の主観と主観の関係から成り立つと思います。

 

近年「当事者研究」が盛んに行われるようになりましたが、これは、当事者と専門職の医療コミュニケーションの再考を促すものでもあると考えています。最近、こうした動きを受けて「療法士の当事者研究」というものを始めました。

 

医療コミュニケーションのもう一方の当事者である療法士の客観主義的な鎧を取り外せたらと考えてのことです。よかったらお時間のある時にご参加頂けたらと思います。

◆「療法士の当事者研究」のHP

URL:https://rehatouken.com/

 

 

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