意欲的になれば、身体機能も上がり、笑顔増える。
ーー 理学療法士を目指したきっかけを教えてください。
河野先生(以下:河野) 父親が理学療法士で、第1回目の国家試験を受験しました。私が工業高校に通っている頃、父親から「理学療法士になれ」といわれ、私は勉強するのが嫌で、就職すると言っていて、1つだけ今のNTTに受験しましたが落ちてしまいまして、高知リハに半分仕方なく通う事になりました(笑)。
それから理学療法士になったのですが、当時はなりたいと思っていませんでしたが、今はこんな楽しい仕事に就けた事を本当に心から感謝しています。
ーー 元々出身は大分ですよね?
河野 別府市ですね。初めの2年間は兵庫の信原病院にいましたが、それから新別府病院に31年勤めています。もう少しで退職しますが…。
ーー どうして退職されるのですか?
河野 杵築市にある病院がデイサービスをやっていまして、10年以上前の立ち上げの時から手伝いにいっているんです。その病院の療養病床の高齢者が、立てない・歩けない方も意欲的になれるようにすると、笑顔も出て身体機能も良くなります。
急性期は手術や疾患による炎症を起こすので炎症が治まれば状態はある程度回復するという印象ですが、外来の方を診ているうちに、理学療法の効果を発揮できるし、在宅をやりたいなとずっと思っていたんです。
手伝いに行っている病院が、今度、小規模介護老人保健施設を作るのですが、小規模多機能型居宅介護ももっています。 杵築市は、地域包括システムが進んでいて、地域の中で密着してやりかけているところですね。加えて杵築市には文武両道の良い高校があるのですが、スポーツ選手に対しても、外来やトレーナーサポートとしても診ていきたいとも思っています。
最初は誰か、理学療法士を紹介してくださいと言われていたのですが、自分がその気になってしまって、理学療法士の人生最後はそこでやってみたいと、不安もありますが思っています。
ーー マニキュアを塗ってあげると外出しにいったりするようなことはありますよね。
河野 ちょっとしたきっかけで、生き生きして外に出るようになりますね。理学療法士として身体機能は重要ですが、以前のように外へ出ていく、そこに持っていくための手段はたくさんあると思います。
ーー 若い人たちは自分の手でどこまで良くできるかというところに興味があります。私は、今思うと徒手療法は手段だったなと思います。
河野 僕も手段としての徒手療法は必要だと思いますがそこにこだわりません。今は患者さんが、セルフでやってもらえるようにもっていくために行いますね。治療効果を上げて、信頼してもらえないと指導内容を聞いてもらえませんから。
「こんなに楽に動けるになりましたよね?そのためにこの運動をやって見てくださいね」と次に来た時に機能チェックして改善して通院しなくてよいようにしないとリハビリが終わらなくなってしまう。
30年前と今のリハビリテーション
ーー 30年前のリハビリはどのような疾患が多くてどんな事が流行っていましたか?
河野 骨折だとギプス固定が1ヶ月とか普通にありましたね。そのためギプスが外れると曲がらないのです。医者には「折れる可能性もあるが曲げて下さい」とか言われました(笑)今考えると恐ろしい事をやっていましたね。
力をいれて自分が損傷させたこともありました。適当にやってた訳ではないですけども、推論というのもあまりなく面白くなかったんです。曲げるか筋トレか歩かせるかのような感じでしたから。今の若い方達は羨ましいですよ。
ーー その流れが変わった分岐点はありましたか?
河野 臨床のなかで「ここを上手くコントロールすると変わるよな」「なんか文献に書いてる方法ではなくこうやれば良くなるよな」とか思っていた時に、木藤伸宏先生や石井慎一郎先生がよくタッグを組んでOAとかTKA術後の事で今までの文献とは違う考え方や治療方法を書かれていました。
それで自分の考え方や治療方法で良いんだと思う事がありました。大分の人はよく言えばシャイで、悪く言えば質問をしないんです。それもあり当時、木藤先生は大分県での研修はあまりやっていなかったんですが、あるとき石井先生も一緒に呼んで研修会をしてくれたんです。
その時に今までの理学療法が変わらないといけないと思っていたのが、これだと思いました。その先生方と知り合ってからもっと変わりましたね。 あとは福井先生ですね。大分県士会の学会での理学療法士の感性の話が衝撃でして、当時の自分にストレートに考えが入ってきて、こんな凄い先生たちがいるんだと思いました。自分の臨床を確認できるというか。
でも若い人たちは悩んでいて、勉強会で学んだ事を臨床でやろうとしても、今まで通りROMexと筋力トレーニングとかを中心にやっている周りの先輩理学療法士たちから「何やっている」と言われてしまって、せっかく学んできた事が出来ず間違っているのかと悩んでいる姿を聞いていました。
自分は、あの先生方に会ってから理学療法は難しいから面白いと思うようになったので、若い方々に文献だけではなく本物の先生方を見せたい、聴かせてあげたいと思うようになりました。その中で、自分も確認してまた質問してという繰り返しで変わりました。今も継続中ですが(笑)。
ーー いろいろな先生に整形外科的な分岐点を尋ねると、福井先生や入谷先生、山口先生がいまして、さらにその方たちは山嵜先生から影響を受けているようですね。80歳ですがまだ臨床に出ているみたいです。
河野 僕も山㟢先生の研修に参加しましたが、理学療法士にも名人と言うような棟梁のような方がいるんだとその時、思いました(笑)みんな原理がわからないから使わなくなりますが、ちょいちょいと少し動かすだけでこんなに変わるんだよと言われ、見せられて凄い印象を受けました。
ーー 元々マッサージ師だったようですが、いきなり国から理学療法士を雇用するからマッサージ師はいらないよ。的に言われたそうです。よく先生は国を信用しないと話されていて、己の手で力をつけて患者さんをよくするということをやっていたようです。
先生が考えが構築されたのは、72歳の時だと話されていました。自分がTKAになって初めてその人たちの気持ちがわかるようになったそうです。
世の中の当たり前の基準が変わってきた頃、理学療法士の考えだけではなく医師の考えも変わってきたと思いますが、荷重制限を早期からなくすようになったのはどちらが早く変わってきたんですか?
河野先生 だいたい同じ頃だと思います。その頃からACLも再腱術をやり始めて面白くなってきました。
ーー どのくらいの時期ですか?2000年頃ですか?
河野 20年経っていないと思います。ACL再建を初めてみたのは17,18年前くらいですかね。
ーー その頃は再腱してもしばらくギプス固定するのがスタンダードだったのですか?
河野 ギプス固定して、その後DONJOYつけてやっていましたね。今はもうやってませんが。
ーー 曲げるのも苦労しますよね。
河野 病院によってACL再建術後の理学療法も違いますからね。現在、当院では退院後、何もつけない事が多いです。この人は、退院後に仕事行くのでせめてニーケアクロスはつけませんかと医師に相談したり。
ーー DON JOYつけた時の河野先生の感じとしてはどうですか?
河野 DON JOYまでつけると動きが制限されるので学業復帰や動きの多い仕事に戻る方は、ニーケアクロスくらいの動きやすいものは必要かなと思います。でも術後半年くらいは再建靭帯に負荷をかけず大切にしてもらいたいなと思います。
ーー 今までで印象に残った患者さんとの出来事はありますか?
河野 ALSの患者さんに「どんな理学療法士になりたいですか?」と聞かれて「出会えて良かったと思える理学療法士になりたい」と伝えたことですね。答えを出すのに数日かかりましたが。
他のALSの患者さんでは、不安な気持ちから筋トレなどオーバーワークをしてしまう患者さんがいて、それでも必死なのをみてオーバーワークが悪い事はわかっていても強く言えなくて。
だんだんと状態が悪化して寝たきりになってしゃべれなくなって、ある日、ベッドサイドに顔を出すと何も言わずに頭を下げながら涙を流していて、私も泣きそうになって部屋を出て泣いてしまいました。そしたら次の日に亡くなってしまって。
私の中ではその人は私と出会って良かったと思ってくれたのかなと思って、こういう仕事に関われて良かったなと思えました。
*目次
【第二回】理学療法士の起業はどう思う?
【第三回】大分県理学療法士協会の加入率はなぜ90%を超えるのか?
河野礼治先生
【所有資格】
理学療法士
【経歴】
高知リハビリテーション学院 卒業
新別府病院 技師長
公益社団法人大分県理学療法士協会 会長
公益社団法人大分県作業療法士協会 理事