概要
先天異常は全新生児の約 6%が有するとも言われ患者ならびに患者家族の QOL (Quality of Life) に多大な影響を及ぼす異常です。先天異常の予防や治療には継時的かつ多様な地域における疫学実態の把握が欠かせないのですが、体系的研究が始まったのはなんと 1960 年代以降でありそれ以前、特に前近代にどういった先天異常がどの程度存在したかという実態は世界的にほとんど解明されていませんでした。しかし京都大学白眉センター 東島沙弥佳 特定助教、同大学医学研究科 山田重人 教授の研究グループは、その暗黒時代解明に日本の古典が役に立つことを示しました。日本最初の正史である『日本書紀』には初代天皇から 41 代天皇までの天皇系譜と事績が記述されていますが、その中には先天異常を患っていたと考えうる記述が含まれていることを本研究グループは発見しました。そこでこれらの記述をピックアップし、医学的ならびに史学的観点から検証することで、これらが先天異常である可能性および症例の診断を行いました。今回検討した記述の中には、史書成立の背景からもたらされたと考えうる比喩的表現も存在したものの、現代医学の観点からは明確に先天異常だと考えうる記述も発見することができました。本研究は、これまで専ら史学的資料として取り扱われてきた文献を分野横断的研究視点で読解することで、古代文献にある種の医学カルテとしての意義を付与するもので、同様の研究アプローチを広めていくことで日本のみならず古代における東アジア全体の先天異常実態解明にも寄与できる可能性を示すことができました。
本研究成果は、2024 年 3 月 28 日に人間文化研究機構 国文学研究資料館が出版するオンライン英文誌「Studies in Japanese Literature and Culture」vol.7 に掲載されました。
これまでもっぱら、いわゆる“文系”の研究対象だと思われてきた『日本書紀』。しかし、視点を変えて読み解くことで、当時の人々が生きた世界の新たな側面を教えてくれるということを実証しました。
背景
先天異常とは出生前に生じる構造的または機能的異常のことを指します。世界保健機構 WHO の報告によれば全世界で出生する新生児の推定 6%が有しているとされ、数十万人の関連死が発生しているとも言われる先天異常ですが、実は体系的な研究が始まったのは 1960 年代以降と最近のことです。近年では発生生物学やゲノム解析技術の発展も相まって、先天異常の症例やその要因に関する研究は日々進展しています。
ですが、こういった体型的な研究がはじまる以前のことを知ろうとすると、それはなかなか困難です。医学論文誌にちらばる症例報告を収集していく必要がありますが、誌上では当然成人での病状や症例報告の方が圧倒的に多く先天異常の実態把握は医学論文誌が出版されるようになった 1800 年代以降のことでさえ非常に困難な状態です。いわんや古代のこと、とくに近代西洋医学が普及する前のこととなると、先天異常の実態解明は非常に困難なことだと考えられてきました。
そこに一条の光を投げかけたのが、日本最古の正史『日本書紀』でした。奈良時代である 720 年に成立したとされる『日本書紀』は、天皇の命により編纂の命じられた国史です。初代神武天皇から 41 代持統天皇に至る 41 代の天皇の事績が記されており、これらは古代日本や周辺諸国の歴史を知るために重要な記録です。しかし『日本書紀』にはそうした政治的なイベントだけでなく、災害や天文の記録、そして奇妙な姿形をしたヒトに関する記録も残されているのです。実は、しっぽの研究者である筆頭著者・東島が「『日本書紀』にはしっぽの生えたヒトがいるという記述があったな」と記憶していたことから、本研究はスタートしました。
これまでもっぱら、歴史的な研究の材料として用いられてきた『日本書紀』。これを、どう見るか・扱うかを変えることで、ある種の「古代のカルテ」にも読み替えることができるのではないかと我々は考えたわけです。
研究手法・成果
本研究では、『日本書紀』に残された天皇成立後の記述を研究対象として、ヒトの異常な身体・精神特徴に関する記述をピックアップし、得られる限りの情報から病名の診断を試みました。『日本書紀』を読むといっても、なかなか簡単にはいきません。奈良時代に完成したと言われる『日本書紀』ですが、残念ながら原本は残存していません。ただし、完成当初から歴史書として重要視されてきたため宮廷で繰り返し講義され、手書きによる書写本が制作されてきました。そのため現在では数十種にのぼる古写本が現存しています。書写の過程で文字の書き間違いが生じたり、また虫食いによって欠損するなどして、写本間で記述が異なる可能性を考慮し、入手可能な範囲で写本を見比べるという作業を繰り返しました。
その結果、初代神武天皇から 41 代持統天皇に至る記述の中に合計 33 例、ヒトの異常な身体・精神特徴に関する記述を見つけました。これらは5タイプに大別できることが判明し、また中には現代医学の観点からも先天異常によると考えうる構造的または機能的な異常も含まれていることがわかりました。『日本書紀』の記述の中には、こうした特徴を「生まれつき備えていた」と書かれているケースも存在しており、先天異常の可能性が高いことを示唆しています。たとえば、生まれつき腕にリンパ管奇形だと思われるような肉の高まりをもつ天皇の話や、生まれつき話すことが困難な皇族たち。あるいは、天皇や皇族以外にも、しっぽが生えた人間や 2 つの顔をもつ宿儺 (すくな) なども登場します。もちろん、こうした記述はすべてが真実であるとは思えず、実際の症状というより何か他の事象の比喩だと考えた方が妥当なものもありました。ですが、これまでもっぱら歴史研究の材料として扱われてきた日本の歴史書が、ある種古代のカルテとしての可能性を秘めていることを本研究では示すことができました。研究者側の視点を変えてみてみることで、『日本書紀』が古代日本の新たな一面を教えてくれることもあるという、広い視野で物事をみることの重要性を示す第一歩ともなりました。
波及効果、今後の予定
近代医学普及以前には、一体どのような先天異常が存在していたのか。その一旦を垣間見るべく本研究ではまず日本のみならず世界的にみても最古級の記録である『日本書紀』をまず分析対象に選びました。今回の研究により、見方を変えれば日本最古の歴史書・『日本書紀』は 8 世紀のカルテにも読み替えることができることを実証できました。今後は、『日本書紀』につづくその他の歴史書、たとえば『続日本紀』以降の五つの国史ならびに広く東アジアのその他の史料においても同様の解析を実施することで、かつての先天異常実態の解明に努めたいと考えています。
研究プロジェクトについて
本研究は、京都大学白眉プロジェクトによる研究助成を受け、実施されました。
研究者のコメント
先天異常はさておき、私は実はしっぽの研究者です。普段は生物学的な実験や解剖を行ったりもします。そんな人間がなぜ、日本書紀に手をだしたのでしょう?その答えは、私の専門・しっぽにあります。『日本書紀』にはしっぽの生えた人に関する記述がある。それに気づいたときから、この研究はスタートしました。つまり、しっぽが私に新しい気づきをくれたのです。文系、理系などという既存の枠組みにとらわれる必要はなく、広い視野で世界を見渡すことで見えてくる気づきにこそ、研究する者の醍醐味であるワクワクが潜んでいると思います。
論文タイトルと著者
タイトル:Congenital Anomalies in Ancient Japan as Deciphered in the Nihon Shoki (Chronicles of Japan)(『日本書紀』から読み解く古代日本におけるヒトの先天異常症例)
著 者:東島沙弥佳、山田重人
掲 載 誌:Studies in Japanese Literature and Culture (vol.7)
URL:https://www.nijl.ac.jp/pages/onlinejournal/sjlc/sjlc07.html
参考図表
『日本書紀』国宝北野本 , 巻 第 十 応神天皇紀 ( 国 立 国 会 図 書 館 デジタルコレクション :https://dl.ndl.go.jp/pid/1142352 より)。図中、赤の矢尻と括弧で示したのが応神天皇の身体に関する記述。天皇の腕には生まれた時から鞆のような肉があったとある。肉があったと記述する箇所 (赤の点線箇所) がこの写本では欠損している (他の写本の情報などから「宍生」と書かれていたと推測されている)。
詳細︎▶︎https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research-news/2024-04-02
注)プレスリリースで紹介している論文の多くは、単純論文による最新の実験や分析等の成果報告に過ぎました。 さらに研究や実験を進める必要があります。十分に配慮するようにしてください。