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習慣的な軽運動が恐怖記憶の消去を促進、PTSDの予防に期待

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恐怖記憶はトラウマ体験の記憶の一つであり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の原因となります。本研究は、習慣的な非常に軽い運動が恐怖記憶の消去を促し、その神経分子基盤として BDNF(脳由来神経栄養因子)が関与することを明らかにしました。

ストレスによって誘発される代表的な精神疾患の一つが心的外傷後ストレス障害 (PTSD: Post Traumatic Stress Disorder) です。近年、運動が PTSD の予防や治療に有効だとする報告が散見されるようになりました。その神経分子基盤の一つの仮説として、BDNF(脳由来神経栄養因子)があります。BDNF は恐怖記憶の消去に重要な因子とされ、習慣的な運動によって脳内で発現が高まることが知られています。

そこで本研究では、独自に開発した動物用のトレッドミル運動モデルを活用し、習慣的な運動が恐怖記憶の消去に効果的か、そしてその背景として BDNF の関与があるかを検証しました。実験ではまず、ラットをチャンバー(箱)の中に入れて軽微な電気刺激を与え、恐怖を記憶させました。続いて、ラットを箱から取り出し、低強度の運動トレーニングを4週間実施した後、再びラットを箱の中に入れてその行動を観察し、運動トレーニングを実施していないラットと比較しました。

ラットは恐怖を覚えていると立ちすくみ行動を示します。最初はどのラットも立ちすくみ行動を示しましたが、習慣的に運動を行ったラットは、徐々に活発に行動するようになりました。このことは、習慣的な運動が恐怖記憶の消去を促進したことを意味します。さらに、低強度運動をしたラットにBDNF の作用を阻害する薬を投与すると、運動の効果は消失したことから、低強度運動による恐怖記憶の消去は、BDNF シグナリングが関与することが分かりました。

以上のことから、強いストレスで形成される PTSD の精神症状は、後に低強度運動を継続して行い、海馬の BDNF 作用が高まることで軽減できる可能性が示唆されました。

PTSD 患者はうつ症状を併発していることが多く、運動継続率が低いことが指摘されています。運動継続性を担保しやすい低強度運動でも恐怖記憶消去に対し有効であるとする本研究の知見は、新たな運動を基盤とした治療・予防プログラムの開発につながる可能性があります。

研究代表者

筑波大学体育系

征矢 英昭 教授

研究の背景

ストレス社会と呼ばれる現代社会、さまざまな精神疾患が多くの人々を悩まし、その活力低下や社会経済的損失が大きな問題となっています。ストレスによって誘発される代表的な精神疾患の一つに、心的外傷後ストレス障害 (PTSD: Post Traumatic Stress Disorder) があります。自然災害が多い我が国では突発的な地震・津波などで PTSD が起こりやすく、その予防や治療に有効な方法が求められています。近年、運動が PTSD の予防や治療に有効だとする報告が散見されるようになりましたが、効果的な運動条件やその神経分子基盤については明らかになっていません。

PTSD の原因の1つに、記憶や学習を担う海馬の機能不全が挙げられています。臨床現場では、強い情動と連関して形成される恐怖記憶に対し、「恐怖ではない事」 を再学習させ、身体的反応を弱める認知行動療法が効果的とされています。この療法は再学習による恐怖記憶消去を基盤とし、記憶や学習をつかさどる海馬が大きな役割を担っています。このことから、海馬機能の活性化が再学習効果を高め、恐怖記憶消去を促進できると考えられています。また、この神経基盤を担う分子の一つが海馬 BDNF (脳由来神経栄養因子) であり、海馬を含む大脳辺縁系領域に BDNF を投与すると、再学習による恐怖記憶消去促進につながることが分かっています(参考文献1)。

本研究チームは、非常に軽い低強度の運動で海馬が活性化し、BDNF の発現や記憶学習が高まることを既に報告しており(参考文献2)、恐怖記憶の消去においても低強度運動が有効であることが想定されました。

研究内容と成果

本研究では、低強度運動が恐怖記憶の消去に有用か、そしてその神経分子基盤として BDNF が関与するかを、ラットを用いて検証しました。

実験動物の恐怖記憶の評価する試験には、恐怖文脈条件付け学習テスト注1)と呼ばれる行動テストを用いました。恐怖記憶は、恐怖を感じた出来事(非条件刺激)と、恐怖を経験した時の文脈(条件刺激:音、光、場所など)で形成されます。動物実験では、あるチャンバー内(条件刺激)でラットに軽微な電気刺激(非条件刺激)を与えると、その後、電気刺激を与えなくてもチャンバー内に置かれるだけで恐怖反応である立ちすくみ行動を示すようになります。これを恐怖文脈条件付け学習と呼び、PTSD の動物実験モデルとして利用されます。恐怖文脈条件付け学習されたラットは、電気刺激を受けずに同一のチャンバー内で過ごすことで、その場所が安全だと学習(消去学習)し、立ちすくみ行動を示す時間は徐々に短くなることから、この立ちすくみ時間が恐怖記憶やその消去注2)の指標となります。

実験では、これらの運動モデルと行動テストを用い、PTSD に有用な運動条件について探索しました。まず、独自に開発した動物用のトレッドミル運動モデルに基づき、低強度運動群(乳酸閾値(LT)以下)、中強度運動群(LT 付近)、安静群の3群を設けました。運動トレーニングを開始する前の恐怖条件付けで、各群同様に立ちすくみ時間が増加すること確認した上で、二つの運動群のラットには4週間のトレーニングを行わせました。

その結果、トレーニング終了後に実施した消去学習において、運動群では運動強度に関わらず 1 日目から、安静群と比較して有意な立ちすくみ時間の減少が見られました。消去学習中の行動変容を時間経緯で確認してみると、最初の数分はいずれのグループも立ちすくみ時間が長く、4週間という時間が経過しても、チャンバーに入ることで恐怖記憶を想起している様子を見てとることができました。しかし、低強度および中強度の運動トレーニングをしたラットでは、時間の経過とともに、立ちすくみ時間が減少し、徐々にチャンバーを安全な場所だと認識し、恐怖記憶が消去されていることが分かりました。消去学習2日目も同様のテストを行うと、運動群ではチャンバーに入った時から立ちすくみ時間は有意な低値を示し、安静群でも後半になると徐々に立ちすくみ時間が減少することが分かりました。このことは、4週間の運動トレーニングをしたラットでは、運動強度に関わらず、安静群よりも早く記憶がアップデートされ、恐怖記憶の消去が完了していたことを意味します。この結果は、運動効果に強度による差はなく、低強度運動でも十分に恐怖記憶の消去を促すことを示唆しています。

さらに、BDNF(脳由来神経栄養因子)注 3)の作用を阻害する薬(ANA-12)注4)を低強度運動群に投与すると、運動の効果は消失したことから、低強度運動による恐怖記憶の消去は、BDNF シグナリングが関与することが分かりました。

今後の展開

運動はトラウマ体験によるマイナスの心理状況から回復させ、PTSD の治療効果を発揮する可能性があります。また、PTSD 患者はうつ症状を併発していることが多く、運動継続率が低いことも問題となっています。本研究で示したように運動継続性を担保しやすい低強度運動でも恐怖記憶消去に対し有効であるとする知見は、精神疾患に対する臨床研究への応用、更には従来とは異なる運動を基盤とした治療・予防プログラムの開発につながる可能性があります。

参考図

 

図1:4週間の低・中強度運動トレーニングによる恐怖記憶の消去促進効果 

図2:運動で促進される恐怖記憶の消去学習は BDNF 作用を仲介する

参考文献

1) Peterset al., Science (80-.). 328: 1288‒1290, 2010.

2) Soyaet al., Biochem Biophys Res Commun. 358: 961-967, 2007.

用語解説

注1) 恐怖記憶条件付け学習テスト

音や光、場所を含めた文脈条件など、それ自体では恐怖反応を誘導しない条件刺激に続いて、電気ショックなどの痛みや嫌悪感を伴い恐怖反応を誘導する非条件刺激を何回か繰り返して与え、条件刺激に対する恐怖反応を確立するテスト。記憶の獲得や恐怖消去のメカニズム解明のために、動物を用いた研究でよく採用されている。

注2) 恐怖記憶の消去

恐怖記憶に関連する現象の一つで、非条件刺激を与えずに条件刺激を繰り返し提示し続けることによって、条件刺激に対する恐怖反応が見られなくなることを指す。PTSD の治療法である暴露療法、持続エクスポージャー療法はこの消去の原理を用いたものである。消去(extinction)といっても記憶が完全になくなるわけではなく、恐怖反応が再出現する復元(renewal)や自発的回復(spontaneous recovery)といった現象も存在する。

注3) BDNF(脳由来神経栄養因子)

脳内に広く存在し、神経 細胞成長に関わるタンパク質。新しいニューロンの成長やシナプス分化を促進し、脳細胞の増加には不可欠とされている。また脳内における神経の正常な発達にも重要な役割を持つ。

注4) ANA-12

BDNF の受容体である TrkB の拮抗薬。投与することによって TrkB に選択的に結合し、BDNF のシグナル伝達を阻害する。

研究資金

本研究は、文部科学省特別経費プロジェクト「ヒューマン・ハイ・パフォーマンスを実現する次世代健康スポーツ科学の国際研究教育拠点」(征矢代表、平成 26-30 年度)、科学研究費補助金新学術領域研究「意欲と身心パフォーマンスを共に育む次世代運動プログラム」(征矢代表、16H06405)、科学研究費補助金基盤研究(征矢代表、18H04081、21H04858)、日本学術振興会戦略的国際研究交流推進事業費補助金「頭脳循環を加速する戦略的国際研究ネットワーク推進プログラム:スポーツ神経科学の国際研究拠点-認知機能を高める運動処方を目指して」(征矢代表、平成 26~28 年度)、JST 未来社会創造事業「世界一の安全・安心社会の実現」領域「快適生活をマネジメントする脳フィットネス戦略」(征矢代表、JPMJMI19D5)の支援を受けました。

掲載論文

【題 名】Accelerated Fear Extinction by Regular Light-Intensity Exercise: A Possible Role of Hippocampal BDNF-TrkB Signaling

(定期的な低強度運動による恐怖記憶消去の促進:海馬BDNF-TrkB シグナリング関与の可能性)

【著者名】 Ryo Shimoda(下田亮)1,2, Yuki Amaya(天谷友紀)1,2, Masahiro Okamoto(岡本正洋)1,2, Shingo Soya(征矢晋吾)3, Mariko Soya(征矢茉莉子)4, Hikaru Koizumi(小泉光)1,Kengo Nakamura(中村健吾)1, Taichi Hiraga(平賀大一)1, Ferenc Torma1,2 and Hideaki Soya(征矢英昭)1,2

1 筑波大学体育系運動生化学研究室

2 筑波大学体育系ヒューマン・ハイ・パフォーマンス先端研究センター(ARIHHP)

3 筑波大学医学医療系

4 九州大学医学研究院基礎医学部門

RS, YA, MO contributed equally to this work

【掲載誌】 Medicine & Science in Sports & Exercise

【掲載日】 2024 年 2 月号(同年8月に修正版をオンライン公開)

【DOI】 10.1249/MSS.0000000000003312

詳細︎▶︎https://www.tsukuba.ac.jp/journal/medicine-health/20240829140000.html

注)プレスリリースで紹介している論文の多くは、単純論文による最新の実験や分析等の成果報告に過ぎました。 さらに研究や実験を進める必要があります。十分に配慮するようにしてください。

習慣的な軽運動が恐怖記憶の消去を促進、PTSDの予防に期待

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