海外で日本の理学療法士が活躍する場を【石井病院|茂木啓介先生】

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この業界は飽和状態になると考えた先の行動

先生はそもそもなぜ理学療法士になられたのですか?

茂木先生:よくある話ですが、学生時代バスケでケガをしてという感じです。実際には、理学療法の専門学校に行く前、スポーツ関係の専門学校へ行き、そこにいた先生の影響で理学療法士という職業を知りました。きっかけといえば、ここになるかと思います。ベタなやつですみません。

 

専門学校卒業後に理学療法の学校へ行かれたということですか?

茂木先生:いえ、当時はまだ養成校も少なかったですし、中学・高校とあまり勉強してこなかったこともあり、3年がかりで日本リハビリテーション専門学校へ入学しました。当時は、スポーツクラブで働きながら受験していました。

 

そもそもの目的はスポーツだったと思いますが、今でも想いはありますか?

茂木先生:きっかけはスポーツに関わる仕事がしたくて目指しましたが、専門学校に入り理学療法の勉強をすればするほど、中枢疾患に興味を持ちました。理学療法士になってからは、理学療法という仕事が面白くて、疾患や分野に対するこだわりはなくなりました。

 

もともと神奈川県出身ということですが、群馬に来ることへの抵抗はなかったですか?

茂木先生:就職したら親元を離れ自立したいという思いがありました。臨床実習から地方に行くことが多かったですし、新しい土地に行くことにはまったく抵抗はありませんでした。

 

実習でお世話になった小野先生(現東都リハビリテーション学院副学院長)の臨床を近くで見たかったので、先生がいる群馬の病院に就職しました。小野先生には、大変お世話になって、石井病院に来るきっかけになったのも小野先生の紹介です。

 

それから群馬に居ついてしまったのですか? 

茂木先生:当時キャリアアップを兼ねてのジョブチェンジは当たり前でしたし、なるべくたくさんの情報に触れたいという気持ちもありました。もともと、小野先生のもとでは1~2年勉強させていいただくつもりでした。次の職場は実家の側でとも思っていましたが、縁あって石井病院(群馬県)に就職させていただきました。

 

ーなぜ石井病院(群馬県)を選ばれたのですか?選択肢は多くあったかと思いますが・・・ 

茂木先生:ゆくゆくこの業界が飽和状態になると考えていたので、年齢を重ねて理学療法士になったので、早くトップマネージメントの経験をした方がいいと思っていました。

 

実家の近くで大変面白い取り組みをされている病院があり、そちらへ行くことも考えましたが、石井病院ではリハビリテーション課の立ち上げ経験もできるということもあり、石井病院に行く決意をしました。

 

ーなぜ飽和状態になると予測されていたのですか?

茂木先生:今のように年間12,000人も排出される状況になるとは思っていませんでしたが、当時、養成校はどんどん新設されていましたので、病院リハビリテーション課のトップのポジションは確実に数の限りがあると考えていました。経験年数は浅かったですが、早め早めに行動しないといけないという意識がありました。

 

リハ科立ち上げの苦悩

茂木先生:立ち上げ当時は、とにかく求人に苦労しました。療法士の人数は増えてきていましたが、小さなリハ室で特に有名でもなく、人数も少ない、2~3年は本当に大変でした。

 

車で群馬を出発して、長野山梨西東京埼玉群馬と1日800キロ15校の学校訪問することもよくありました。PT2年目3年目であまり知り合いもおらず、学校訪問しても教員に会えず、求人票と名刺だけ置いてくるなんてこともありました。「営業職ってこんな感じなのだろうな」と思いながらも、心が折れそうになったこともありました。

 

そんな中でも、丁寧に接してくださる大先輩方もいて、今でもおつきあいさせていただいております。人の繋がりをつくる中で、求職者が増えて、スタッフ数8人を超えた途端苦労は無くなりました。

 

ーもともと理学療法の職人的な部分に憧れていたのだと思いますが、現在ではマネージメントの立場へと移行されていると思います。個人的に、その切りかえは結構難しいことだと認識しているのですが、職人からマネージメントに切り替えるとき、「職人とマネージメント」を棲み分けることができたのでしょうか?

茂木先生:技術の勉強は、職場に限らず個人で勉強することができます。医療技術職である以上、専門性を磨くことは重要であると、今でも石井病院ではかなりの教育予算をとってもらっています。

 

ですので、ある程度好きに勉強できる環境を用意していただいて、不自由を感じることはありませんでした。マネージメントをやりながら技術・知識も磨く。この両輪を回そうと思っていました。

 

ただ、今のように経営マネージメントや新規事業の立ち上げを沢山行う、というイメージは当時なかったと思います。

 

そういう意味では、臨床は臨床でおもしろいのですが、マネージメントの方がおもしろくなってしまったというのが現状です。

 

入職を決めたとき、石井病院で回復期リハビリテーション病棟を立ち上げることが一つの目標でした。制度が始まったばかりでしたが、当時、リハビリテーションの重要性を理解している病院はいち早く開設していました。

 

対象疾患患者数、在院日数、医業収入等を試算し、導入後の病院にもたらす効果、患者様に対するメリット等を経営陣に提示し、回復期リハビリテーション病棟開設が決定されました。

 

それからは改築、開設に向けた準備等プロジェクトリーダーとして関わり、これをきっかけに、病院運営に関わる面白さに魅了されていきました。

 

ー理学療法士でマネージメントの立場に立っている人も多いと思いますが、なぜだと思いますか?

茂木先生:理学療法士の臨床における過程とマネージメントに求められる過程が同じだからだと思います。

 

PDCA」「Plan-Do-See」「SOAP」だとか「情報収集–評価–統合と解釈–計画–目標設定–効果検証」といった理学療法の過程と同様のものがマネージメントで必要なのです。言い換えれば臨床もマネージメントです。

 

管理職で結果を残せる人はおそらく臨床もしっかりできる。逆もまた然りだと思います。

 

ーマネージメントの転換期として部下の人数が関係すると思いますが、実際何名くらいの部下をもったときにマネージメントの変革がありましたか?

茂木先生:10人を超えたタイミングだと思います。二桁を超えると、個と個のつながりが薄くなっていくのを肌で感じました。9人までは、個人的にべったり張り付いてフォローしてあげられましたが、10人を超えたタイミングで、「全員は難しいな」と感じました。

 

自分の部下が、その下の面倒を見てあげられるようにならないと、組織は強くならないと思ったタイミングです。

 

ー少し話は戻りますが「トップを狙いにいきたい」という上昇志向は、どこからきているのだと思いますか?

茂木先生:それは多分コンプレックスです。親兄弟、親戚、私以外は大学出身者で、ほとんどが商社や銀行、一部上場企業に勤めています。その中で、私の経歴はというと・・・・唯一の専門学校卒。

 

理学療法士という仕事に就けたとき、他の親族とは違うけれど、病院で働き直接的に人の役に立てる仕事であると誇りに思いました。

 

ただどこかで「専門卒でも一流企業に入らなくたって稼げるのだ」と言えるようになりたかったです。ある意味では、そうならなくてはいけない、という宿命からくる強迫観念が、トップを目指したのだと思います。

 

この業界である程度収入を得るためには、教授になるか、起業をするか、トップになるか。当時それ以外の選択肢しか私にはわからなかったので、トップを目指したということです。

 

ーマネージメントについてもう少し伺いたいのですが、茂木先生の先ほどの話ですと、「人数」というのが、マネージメントが変わるきっかけでした。もう一つの軸として、「年代」という軸も議論によく持ち上がります。「今の若者は」が代表的なものです。やはり、マネージメントを行う上で、年代による変化も実感としてございますか? 

茂木先生:正直わかりません。当然年代格差はあると思います。自分も若いころ「おじさんは一体何言っているんだろう?」と思っていました。今ではそのおじさんが、自分に変わりました。どの時代もジェネレーションギャップはありますからね。ただ、もう少し・・・

続くー。

 

【目次】

海外で日本の理学療法士が活躍する場を

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