サックスの演奏方法のご紹介
■楽器の構え方と重さの支え方
まずはサックスの構え方をご覧ください(写真1)。
ストラップという道具を首から下げ、その先についているフックを、楽器本体についているリングに引っ掛けて吊り下げます。そして、みぎ母指以外の全ての指を使ってキーを操作して演奏します。
写真のアルトサックスという楽器は、2〜3kgの重量がありますが、その重さはストラップで吊り下げられますので、どの指も楽器の重量を支えることには使われません。 つまり、サックスが重いのでみぎの親指が痛くなるということはないのです。
演奏時の楽器の安定のさせ方
サックスを演奏する時に楽器を安定させるためには、第三のてこを利用します。 第三のてこは〔支点→力点→作用点〕の順で並びます(注:高等教育では、力点も作用点と解釈します)。
サックスの演奏時に楽器が安定する順番は以下の通りです。
①ストラップのフックを楽器本体に引っ掛ける(支点)。
②ひだり母指で楽器本体を軽く前に押し出す(力点)と、マウスピースを上に押し上げる力が発生する。
③ 切歯に向かって、硬いマウスピースが上に押し上げられる(作用点)。
つまり、硬いマウスピースを通して、サックス奏者の頭部骨格と楽器が一つの構造体となるので、みぎの親指で楽器を支えなければならないということは起きません。
運動学的視点から見た違い
では、初心者はどうしてみぎ母指の痛みを訴えるのでしょうか。 みぎ母指が痛くならない中級者以上と、みぎ母指の使い方を比較してみましょう。
■初心者のみぎ母指の使い方
さて一方で、初心者に多い「親指が痛い」という訴えは、なぜ起こるのでしょうか。 これは、「みぎ母指で楽器の重量を支える」という、初心者ならではのみぎ母指の間違った使い方が原因となるのです。
前述の通り、本来サムフックは、みぎ母指の対立運動から生み出される多様なキー操作を可能にさせる、”クローズドキネティックチェインのための足場”に過ぎません。
しかしながら、初心者は、母指をサムフックに引っ掛けて、サックス本体を持ち上げることで、楽器の重量の一部をみぎ母指に担わせようとしてしまいます。
その動きを、母指の各関節の運動方向で表現すると、手根中手関節:内転・伸展・内旋(中級者以上:対立) 中手指節間関節:伸展(同:軽度屈曲) 指節間関節:伸展(同:軽度屈曲) となります。
つまり、中級者以上とは全く違う母指の使い方となっているのです。
特にこれらの動きの中で問題となるのが、手根中手関節の内転と中手指節間関節の伸展です。
楽器の重量を持ち上げるべく能動的に発動されたこの2つの強力かつ間違った自動運動により、母指の指節間関節の内側の骨隆起や母指内転筋腱内の種子骨が、金属製のサムフックに強く当たり、鈍的な外力が継続してかかり続けることによる関節包および骨膜由来の疼痛の原因となるのです。
中級者以上のみぎ母指の使い方
みぎ母指が楽器に触れる部分に、サムフックとよばれるパーツがあります。 中級者以上のサックス奏者は、このサムフックにみぎ母指を「当てて」演奏します。この「当てる」理由は、オープンキネティックチェインで説明されます。
日常生活における手指運動においては、その運動の事実上の起点である手根中手関節よりも中枢側、すなわち肘関節や肩甲上腕関節に、効果器としての手指の随意運動(例:コップを手に取る)に呼応する固定の役割を担わせます。
中級者以上がサックスを演奏する場合においては、効果器としての手指の随意運動(=サックスのキー操作)に呼応する固定の役割を母指に担わせます。
これは、母指の能動的な対立運動によって母指を楽器に固定させると、その対立運動を始まりとして、手掌腱膜の軽度伸張や、短母指屈筋の収縮による長掌筋の軽度収縮、深横中手靭帯による中手骨遠位端の再配列による手内在筋群の効率的な筋活動等が可能となり、素早く確実なキー操作が可能となる手指の準備ができるためです。
さらに、また違うキー操作の場面では、母指の対立運動を始まりとしてクローズドキネティックチェインが発動され、第一中手骨の長軸から大菱形骨・舟状骨-橈骨を回転運動軸として、遠位等尺関節の誘導による前腕回内を行い、示指の中手指節間関節の外側でキーを操作するという複雑な動作までも行うのです。
ここで改めて運動学における母指の対立運動を、中級者以上のサックス奏者が楽器を構えた時の母指の各関節の運動方向を交えて表現すると、 手根中手関節:外転+屈曲+内旋(=対立) 中手指節間関節:軽度屈曲 指節間関節:軽度屈曲 となります。
つまり、中級者以上のサックス奏者のみぎ母指の動きは、運動学から観察しても、人間として自然な動きの上に成り立っているばかりか、他の4指の動きをなめらかにするための動きでもあるということがわかります。
中級者以上がサックスを構えた時の主動作筋
屈曲:短母指屈筋・母指対立筋・長母指屈筋
外転:短母指外転筋・長母指外転筋
内旋:母指内転筋
このように、手掌に内在する生理的な手のアーチの形状維持を副次的にサポートする筋群を、演奏にも有効に活用していることがわかります。
初心者がサックスを構えた時の主動作筋
みぎ母指の伸展運動の主動作筋を見てみます。
手根中手関節:第一背側骨間筋・母指内転筋横頭および斜頭・短母指屈筋
中手指節間関節:短母指伸筋
指節間関節:長母指伸筋
このように、母指を除く4指において、手掌に内在する生理的な手のアーチを保持することがサックスのキー操作を行うには望ましいところ、初心者では、そのアーチを開離する方向に母指を動かしていることがわかります。
手のアーチの破綻
つまり、初心者は、みぎ母指を伸展させてサムフックを引き上げることで楽器の重さを支えようとするあまり、手の機能的肢位である生理的な手のアーチを積極的に崩してしまい、結果的に演奏に必要なサックスのキー操作が困難な状況を作り上げてしまっているということになります。
このことが、思い通りに吹けないという精神的ストレッサーとなり、それを力で克服しようとして不必要な手の力みとなり、ますます演奏を困難なものとしてしまっている可能性があります。
理学療法士による対応・アプローチ
ストラップの長さの指導
体幹の長軸方向の長さは個人差が大きいものなので、ストラップの長さにおいては、一律の適切な長さというものは存在しません。つまり、次項以降の調節が適切に行える長さが良いということになります。
第三のてこの体感
「みぎ母指をサムフックに引っ掛けてサックスを引き上げる」という、不要な動作手順を止めさせるにはどんな手順で進めてゆけばよいのでしょうか。
それは、それが不適切なので止めなければいけないという「一方的な動作手順の中止」を口頭で指示するだけでは、サックス奏者は動作を変更しません。
なぜなら、今まで疑問を抱くことなくこれまで繰り返して行ってきた動作であり、サックスを演奏するという行為には不可欠な動作になってしまっているからです。
つまり、「能動的な動作手順の変更」にまで結びつかなければ、行動変容にまで至らないのです。このことは、一般的なリハビリテーションの臨床場面においても同じことです。
今回の問題の場合は、以下の手順で対応いたしました。
1.ストラップに楽器を吊り下げて普段通りに楽器を構えていただく。
2ひだり母指以外の指を楽器から離し、ひだり母指で楽器を前に軽く押し出していただく。
3.マウスピースが切歯を上に押し上げることによる楽器本体の安定を確認していただく。
4.これを再現するためにはストラップの長さを調節する重要性を伝える。
5.ストラップを短くして3.を再度確認し、みぎ母指で引き上げなくても安定することを体感していただく。
このように誘導すると、みぎ母指をサムフックに引っ掛けてサックスを引き上げることをしないようになるため、みぎ母指が楽器の重量を支えることから解放され、みぎ母指の対立運動ができるようになります。 そうすると、指使いがとても速く楽になったとお感じいただけました。
サムフックの調整
ここまでの段階がうまく体験できると、サムフックの位置をずいぶん下にセットしていたことに自然と気がつきます。
なぜなら、今までは、みぎ母指をサムフックに引っ掛けてサックスを引き上げていたため、やや低めの方が引っ掛けて引き上げやすかったからです。
多くのサックスは、サムフックの位置を調整することができるため、目の前でサムフックの位置の調整を行います。その位置決めを行うときに重要な点が、初心者のサックス奏者に、「みぎ母指の対立運動の重要性」に気づいていただくという点です。
そこで、実際にサムフックの調整に入る前に、母指伸展の等尺性収縮の維持が、他の4指に与える悪影響について体感していただきます。
痛みからの解放
このことにより、ようやくみぎ母指をサムフックに引っ掛けて引き上げることをしなくなるので、みぎ母指が痛いという悩みから解放されるのです。
無意識に行ってきた動作というものは、なかなか変えることは困難です。しかしながら、解剖学や運動学を学んだ理学療法士が、第三者の目で演奏姿勢や演奏運動を観察することで、解決の糸口が見つかることもまた多くあるのです。
まとめ
さて、初心者のサックス奏者に起こりがちな「サックスを吹くとみぎの親指が痛くなる」という事例に対して、理学療法士としてのアプローチ方法を例示させていただきました。
サックススクールの合宿では、お一人様あたり30分程度のお時間でしたので、私の力不足により十分なご理解まで至っていただけなかったかもしれません。
しかしながら、「母指の痛み」や「速く吹けない」といった問題を感じている初心者のサックス奏者に対して、病歴の聴取から始まり、楽器の構え方や全身の姿勢の評価、曲を吹いている時の指使いや呼吸の動作分析、母指の他覚的検査や全身の理学的検査を行ったのち、いま最も解決すべき問題点を、優先順位を考え抜いたのちに、その解決方法をサックス奏者と共有し、一緒に問題解決まで持っていくという手順は、医療や福祉の現場に携わる理学療法士となんら変わることはありません。
一般的なリハビリテーションの臨床場面においても、非効率的な動作手順を無意識に選択して日常生活動作を行ってしまっている方々に対して、全く別のより合目的的な動作を指導する場面はよくあるものと存じます。
医療や福祉の分野で働く理学療法士は、解剖学や運動学、生理学といった西洋医学の科学的知識を拠り所としてそれらを行う専門職です。つまり、今回ご紹介申し上げました通り、音楽家に対しても、医療や福祉の分野と同じ思考過程で対応することが可能なのです。
これからの日本の音楽家も、諸外国と同じレベルで医療との結びつきが強くなってゆくものと思われます。そのような理想的な社会が到来した時、動作分析のプロである理学療法士も”音楽家の演奏”動作”をサポートできることでしょう。
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