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私は世界に恋をした【元UNICEF 理学療法士|中村恵理】

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国際協力?何が楽しいの?

-中村さんが国際協力を目指すきっかけとなったエピソードを教えてください。

中村:私が通っていた高校はカトリック系のミッションスクールでした。校内はシスターが出入りしていて、彼女たちは世界各国でボランティア活動をしていました。あるとき、一人のシスターがアフリカの学校での支援について現地報告をしてくれる機会があったんです。

 

当時の私は海外に興味があったものの、途上国に対しては貧しい、汚いというイメージが先行して、そこへ行く人の気持ちが分かりませんでした。そのため最初は報告にも興味が湧かなかったのですが、大変な活動のはずなのに楽しそうに語るシスターの様子にだんだんと惹き込まれていきました。

 

周りに楽しく仕事をしている大人がいなかったこともあり働くことに悲観的だった私ですが、初めて会った彼女の仕事や生き方に触れて電気が走ったような衝撃を受けました。輝いている彼女を見て「こんな大人になりたい」と直感し、また「どうして大変なはずなのに笑顔なんだろう?」と不思議に思いました。さらに「次は自分の番だ」という感覚が降りてきたんですね。国際協力を目指すことになったのは、この3つの気持ちがきっかけでした。

 

-そこからどのような経緯でPTを目指すことになるのでしょうか。

中村:私は進む方向が見えるとそれに向かって一直線になる方。それまで将来の目標も進路も決まっていませんでしたが、彼女との出会いから国際協力について一気に調べ始めました。途上国で働くには、JICA海外協力隊(以下協力隊)になるには、そのために必要なスキルは…。こんな風に調べていくなかで国際医療福祉大学にたどり着いたという感じです。PTという仕事も途上国で働くのに食いっぱぐれないというか、確実に現地で活躍するためのツールとして選びました。

 

-国際協力を目指すにあたり、大学時代はどのように過ごしていましたか。

中村:アルバイトを掛け持ちしてお金を貯めて、長期休暇期間のたびに海外に行っていました。20歳のときにネパールに行ったのが最初です。初海外、初途上国ということでまずはパッケージツアーに参加しました。医療学生を集めた医療スタディツアーで、スケジュールが決められているうえに通訳もついていて安心でした。

 

慣れてきたら一人で現地へ移動しNGOを通して自分で旅程をアレンジしたりして楽しんでいました。私は慎重派で心配症な性格なので、一つずつステップを踏みながら経験を積み重ね、自信をつけていきました。私だけでなく、日本人は自己肯定感が低い人が多いですが「あの時はここまでできたし、なんとかなりそう」「なんだ、自分ってできるんだ」と自分を褒めることは大切ですね。

 

また、自分の大学内に国際協力に興味を持った学生は多くなかったため、大学を飛び出し国際医療系学生団体に参加し、他大学の多種多様な学科の医療学生たちと夜遅くまで議論したり、国際協力に関するイベントの企画や運営も行っていました。

 

ちなみに言語についての相談をよくいただくのですが、私は元々英語を全く話せませんでした。国際協力にかかわるようになって1から勉強しましたが、なんとかなるものです。

 

-若い世代が夢を諦めてしまう要因の一つに「親からの反対」があるように思います。中村さんの国際協力への興味に対して、ご両親はどのような反応でしたか?

中村:女の子ということもあり、親は反対していましたね。それこそ大学時代は海外に行く計画を立てるたびに親を説得しなければならなかったです。就職後に協力隊に参加したときもその後の国連ボランティアのときもそうでしたし、これからイギリスの大学院に行くことも未だに快くは思っていないと思います。ここまでくると親も「この子は何を言っても聞かないな」という感じですが(笑)。

 

それでも、学生の頃から根気強く親と向き合うことは大切にしてきました。当時は親が寛容でなんでも自由にできる友人が羨ましかったですが、今思えば親からの反対があったからこそ自分のやりたいことがはっきりしたと思います。親から反対されたからといって諦めるくらいの気持ちなら、その思いはそんなに強くないと思うんですね。本当にやりたいことなら誰に何を言われようとやろうとするはずです。

 

国連ボランティアに行くときは「行くなら家の敷居はまたがせない」とまで言われて…そのくらいうちは厳しかったんです。それでも行きたかったし「あぁ、私はやっぱり国際協力が好きなんだな」と確信できました。途中で諦めるのは過去の自分や親が許してくれないからと、強くなれました。親からの反対も悪いことだけではないですね。

 

川下で赤ちゃんを助けるか、川上で赤ちゃんを投げ込む人を止めるか

-中村さんのように国際協力を目指す学生はどんな進路を選択するべきだと思いますか?

中村:「どこに就職すれば国際協力できますか」とよく質問を受けますが、その人の「好き」や「やりたい」を大切にすることが一番だと思います。私は国際医療福祉大学を卒業したあと、どこに行ってもどんな患者さんにも対応するスキルを身につけたくて急性総合病院へ就職しました。ですが、それが人によって小児であっても高齢者であってもいいと思います。

 

世界的に求められていることに加えて、自分がやりたいことを貫いてその領域を極めていくことが大切ですね。お金を稼げる仕事ではないですし、「好き」という気持ちがなければやっていけないです。

 

-急性総合病院への就職の際には既に国際協力を視野に入れていたと思いますが、職場ではそれをオープンにしていましたか?

中村:さすがに就職面接の際に堂々と言うことはありませんでしたが(笑)、長期休暇でよく海外に行っていましたし、同僚は薄々気がついていたと思います。でもはっきりと伝えてはいなかったですね。

 

就職してからはめまぐるしい忙しさで、毎日目の前の患者さんのことで精いっぱいでした。私だけでなく、PT、OTの皆さん誰しもがそうだと思います。患者さんに向き合うときは心の中で「将来出会う海外の患者さんのためにも、今目の前の患者さんに120%全力投球しよう」と思っていました。

 

国際協力の夢を忘れるわけではなく、切り離して頭の片隅に置いていたという感じです。この思いは周りに公にすることはなく、院内では知識と技術を学び、経験を積み上げることに注力していましたね。

 

-急性総合病院にて5年間経験を積んだ後、どのようなキャリアをたどったのでしょうか。

中村:二度目の応募で協力隊に受かり、PTとしてキルギスという国に2年間派遣されました。その前にPTではない案件で一度落ちていたため、二度目ではあったものの背水の陣の勢いでした。もし受かったらどこでもいいから頑張ろうと思っていたところ、名前を聞いたこともない、場所も知らない国へ行くことになり驚きましたね。

 

-行きたい国があったのですか?

中村:元々はガーナを志望していました。国際協力と言えばアフリカというイメージが強かったのと、できれば英語圏、もしくは国連公用語とよばれるフランス語、スペイン語などを話す国がいいと思っていました。協力隊は派遣前に訓練所での語学研修があるため、英語などの国連公用語が学べれば将来国際機関で仕事をする上でプラスになると考えていたんです。

 

キルギスではキルギス語とロシア語を使います。言語には生活言語と活動言語があり、通常同じ言語を使いますが、キルギスで私が派遣された地域は活動言語がキルギス語で生活言語がロシア語。訓練所でキルギス語を、現地でロシア語を覚えました。2つの言語を同時期に習得するのは本当に大変でした。

 

-協力隊として2年の任期が終了したあと、すぐに語学留学に行っていますね。

中村:帰国して3週間後に日本を立ち、アイルランドで3ヶ月間を過ごしました。留学費用が安く抑えられて日本人が少なく、自然豊かという3つの条件を満たしたのがアイルランドでした。

 

途上国を経験した直後だったため、生活に対してはある意味物足りなさを感じました。電車やバスが時刻通りに来るし、お湯が普通に出るし…。途上国は何事もうまくいかないからこそ、うまくいったときの達成感がものすごいんですよ。今日はお湯が出た!とか、同僚が待ち合わせ時間に間に合った!とか。言語も2つから1つになって、完全に途上国シックでしたね(笑)。

 

語学留学は楽しいと聞いていましたが、私は留学後、国連ボランティアでの活動と大学院への入学という明確な目標があったため死に物狂いで勉強していました。大学院に合格するためには英語の試験をパスしなければならず、3ヶ月という短期間でスコアを上げるため、毎日18時間くらい勉強していました。

 

-同時進行で国連ボランティア参加の準備もしていたのですか?

中村:勉強しつつ、書類作成などの準備もしていました。帰国後にオンライン面接を受けたらありがたいことに採用され赴任前の準備を行い、約1カ月後には再びキルギスに飛び、2年間携わりました。振り返ってみると怒涛ですね。

 

協力隊での2年間は目の前の患者さんを助けることに尽力していました。でも医療体制の仕組み自体を変えないことには患者さんが減ることはないと実感して、政府の仕組みに切り込みを入れられる国連を志望するようになりました。

 

例えば川に赤ちゃんが流れていて、1人助けても次から次へと流れてくるとしたらどうしますか?川下で赤ちゃんを助け続けるか、川上で赤ちゃんを投げ込む人を止めるか、何か行動しなければいけません。協力隊では川下で目の前の赤ちゃんを助けていました。でも川上の状況を変えたいと思い、国連に入ったという感じです。

 

これからもさまざまな切り口で国際協力にかかわっていけたら視野が広がると思います。

 

-6月末に帰国したばかりの中村さん、8月末からはイギリスの大学院に入学されるのですね。

中村:イギリスの大学院では公衆衛生を学びます。国際協力で、さらに途上国の現場で仕事を獲得し続けるためには、公衆衛生の修士を持っている方が一番有利なんです。公衆衛生を学びたいというよりも、今後も国際協力で仕事をしたいからという気持ちです。

 

-どうしてイギリスなのでしょうか?

中村:アメリカや日本の大学院は2年ですが、イギリスは1年で卒業でき、学費も抑えられます。大変な1年間になると思いますが、なんとか乗り越えて早く現場に戻りたい気持ちが強いです。またイギリスは開発支援の国。一番学びたい科目を網羅している大学がこの地で見つかったことも決め手になりました。

 

-その後はどのようにキャリアを築いていこうと考えていますか?

中村:大学院卒業後はJPO(Junior Professional Officer)派遣制度に応募し、国連もしくは国際機関の職員として途上国で働きたいと思っています。けれど、必ずしも国連にこだわっているわけではありません。国際NGOの職員として途上国で働くことも魅力的なので、その方向でのキャリアも真剣に模索しています。

 

外務省が主催するJPOは35歳以下の若手日本人を対象とした制度で、派遣先の国際機関で職員として勤務しながら正規採用を目指すというもの。JPOを通して応募した方が、一般公募で直接アプローチするよりも圧倒的に競争率が低いんです。任期は2年、延長できて3年。その先も国際協力の現場で仕事ができるよう、国際機関でポストを探すことになりますね。

 

続くー。

 

【目次】

前編:私は世界に恋をした

後編:国際協力という生き方

 

PROFILE

1988年生まれ、北海道出身。国際医療福祉大学を卒業後、理学療法士の国家資格を取得。急性期総合病院に5年間、理学療法士として勤務した後、2016年10月、協力隊員としてキルギスに赴任。18年10月に帰国。19年からUNICEFキルギス共和国事務所に赴任。

私は世界に恋をした【元UNICEF 理学療法士|中村恵理】

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