バブルが弾けて、お先真っ暗へ
― 理学療法士になる前、トレーナーをされていたと伺いましたが、より専門的な勉強をするために理学療法士になられたということですか?
小泉先生:ちょっと話が長くなりますが、いいですか?実は、高校生の頃は映画監督になろうと思っていました。ですから大学も、映画監督になろうと思い受験しました。ただ先に合格したのが社会福祉学科で、入学後に転部もできるということで入学しました。
大学入学後、とりあえず映画研究会に入りました。入ったのはいいものの、自分の理想とは違い結果的に映画学科にも転部しませんでした。すぐに映画研究会もやめて、プラプラしていた時、アメフトに誘われました。体を動かすのは嫌いではなかったので、誘いを受け、アメフトをはじめました。そのころのアメフトは、ラグビーとは違って高校からやっていなくても比較的大学から始めやすいスポーツの一つでした。
当時の体育会アメフト部はとても強くⅠ部に所属していましたが、実家が裕福なわけではないのでバイトしないと生活できないということで、同好会に移籍しました。アメフトは女の子にもてそうだし、合コン人気ランキングが高いという噂もあり、福井の田舎から出てきた自分にとっては、「The Tokyo」という世界に魅せられて、不純な動機ですね。
当初、そこまで活躍できる自信もなかったのですが、どんどんのめり込んで、結果として長く(36歳まで)続けましたね。今ではスポーツの世界に両足を突っ込んでいますが、実はスポーツを本格的にやったのは大学に入ってからだったんです。
バブル期にあった当時、アメフトの関係で実業団の会社に内々定をもらったりもしていましたが、留年したりバブルが弾けたこともあって、その話も弾けました。
仕方ないので、ジムのインストラクター(いわゆるフリーターですね)をやりながら、アメフトのクラブチームで選手兼トレーナーをやったりしてたのですが「このままではまずい、なんとか就職しなくては」と真剣に考えだしまして。で、資格を取ろうということでPTの学校に入学した、という流れです。
当時の状況は、同期はバブル絶頂期に社会へ出て、バブル崩壊とともに退職してPTの資格を取る人も多かった印象です。今と違って、PTの資格を取れば一生安泰という時代でしたからね。教室には、なんとしても資格をとって仕事したいという、職業訓練校的な切羽詰まった雰囲気がありました。
カバン持ちからATへ
― 全然スポーツという感じではなかったんですね。なぜ急に理学療法士になろうと思ったんですか?
小泉先生:そもそも理学療法士という仕事は全く知らなくて。大手スポーツクラブでバイトしながらアメフトしてたんですが、大学3年生のときに始めて大きな怪我で肩を脱臼しました。実際はアメフトの試合中に損傷したのですが、その時は「ゴリッ」と肩がはまったので、治った~と思ってそのままにしていたんですが、いつまでたっても「なんだか痛いな」と。
しばらくして病院に行くと「骨折してるからリハビリしなさい」ということで、今思えばバンカートですよね。ここで、人生初めてリハ室に行くことになりました。当時担当してくださった先生が加藤先生(加藤知生先生 現桐蔭横浜大学教授)という理学療法士で、そのとき失礼な話「なんて楽勝な仕事なのだろう」と思ったのです。
というのも、当時先生は16時半くらいに仕事を終えて帰られてたんです。それで「PTってすげー楽じゃん」と思ったのですが、実は勤務後に柔道整復師の学校に通われていたということで、とんでもない勘違いですね。
そのあと知人の紹介で、昭和大学藤が丘リハビリテーション病院でリハを受けることになったのですが、そのときの担当PTが山口先生(山口光國先生)でした。90年代前半で、後年山口先生に伺ったところ一番忙しい時期だったそうです。
リハを受けるまでに3時間、5分でリハして「これやっといてね」と、また2週間後に3時間待って…という状況で。そんなことが続いて3ヶ月くらい経った頃でしょうか、気づくと肩の痛みがなくなってて。「PTってスゲー」という感じでした。
― 黄金期ですね。
小泉先生:周りの患者さん、プロ野球選手だらけでしたね。
北島康介選手を担当して
― それがきっかけでスポーツ理学療法に興味をもたれたのですか?
小泉先生:いや、実はそうでもありません。というのも、最初就職したのが総合川崎臨港病院という、今でこそ大きなリハ室がある病院ですが、その立ち上げ時に入職しました。フリーター時代、中野サンプラザで働いていたのですが、当時の知り合いに「関東労災病院を退職される村井貞夫先生のカバン持ちをしろ」ということで、当時体調を崩されていた村井先生の下で働くこととなりました。最初はリハ室を改築中だったので、倉庫のような場所でリハしてましたね。
そのころ、村井先生は日本体育協会の仕事をされていたので、そこに助手という形でお供していまして、「村井先生の推薦でAT(アスレチックトレーナー)を取得しては」とお声がけいただきました。当時は、学校もない時代ですからね。「よっしゃー!」と思って、AT講習を受講できることになりました。
― 推薦枠って1人につき1推薦でしたよね?
小泉先生:当時はそうですね。全体で85人くらいだったと思います。臨床2年目から受講していましたが、同期は錚々たる顔ぶれでした。鈴木岳氏(株式会社R-body project代表)とか、なでしこJapanを担当している広瀬統一氏(早稲田大学教授)とか、船橋市議会議員の岡田とおる氏とか、みんな同期です。
AT取得後は多摩リハビリテーション病院で、メディカルフィットネスの主任をやっていました。私からしたら当時の職場には何の不満も文句もなかったのですが、あるとき母校の先生から「お前来年衛生(東京衛生学園専門学校)に戻ってこい」と急にお声がけいただきました。
個人的には「俺でいいのか?」って感じで。学生の頃、成績悪かったし、長野オリンピックのTV中継を観てて試験を欠席しそうになった過去もあったので「自分が教員じゃまずいと思いますよ」と言ったのですが、「いいから教員で戻って来い」という大変名誉なお言葉を当時の矢野幸彦学科長からいただき、6年目には教員としての活動がはじまりました。
早速、夜間1年生のクラス担任を持つことになったのですが、その生徒の中に、鍼灸、ATをもっていて水泳のトレーナーをやっている桑井太陽という社会人学生がいると、以前リハでお世話になった加藤先生から伺いました。私は後に、国立スポーツ科学センター(JISS)で勤務するのですが、その前に勤務していたのが桑井君だったわけです。
JISSはパーマネント(期限無し)と契約(期限付き)という2種類の雇用形態があり、ちょうどその年いっぱいで桑井君の任期が終わるとのことでした。私は「そうなんだ、誰か良い人いるといいね」なんて言っていましたが、立て続けに「空きますよ?」と3回くらい聞かれるわけです。それで「俺?」となり、周囲の先生からも受けてみたらと言っていただいて、ダメもとで受験。結果、奇跡的にJISSにお世話になることになりました。
で、前任者の桑井君が水泳選手を診ていたので、そのまま入れ替わりの私が水泳選手を担当することになりました。そこで最初に見た選手が、“北島康介”だったという、困った話になったわけです。
― ようやく先生と水泳の接点がわかりました。
小泉先生:水泳経験とか全くないですからね。現場としては、最初は競泳ではなく水球の代表チームの中国遠征に帯同することになりました。当時、水泳トレーナーの中でも競泳は花形で、次いでシンクロです。
水泳の中でも水球はかなり特殊な競技で、怪我が多く外傷対応なども必要な一人仕事であることから、競泳を担当していた人たちはみんな断ったみたいです。そこで、アメフトトレーナー経験があり水泳に関わりだしたことから「小泉いける?」と声がかかり、これまた水球と縁もゆかりもない私が水球日本代表トレーナーとなりました。
今まで観たこともなかった競技でしたがとても面白くて。今でも、水球はトレーナーとしても観客としても、とっても面白い競技だと思います。
その後、何度か水球の代表トレーナーとして活動していたのですが、競泳ジュニアの代表チームにトレーナーをつけることになり、トレーニングとコンディショニング全般を指導できる私に「行ける?」とお声がけいただきました。これまた正直、競泳の現場を全く見たことなかったのですが、実は遠征先が「ハワイ」ということで、快く引き受けることとなりました。
― ハワイじゃなかったら引き受けてないですね。
小泉先生:ハワイじゃなかったらわからなかったですね~ってのは冗談ですが。当時担当していたジュニアの選手はその後、メダリストになる高校生がたくさんいて、立石諒とか星奈津美とか金藤理絵とか。まさか、そのあと長い付き合いになりオリンピックに一緒に行くことになるとは、1ミリも考えてなかったですね。
― 先生のお話を伺っていると、色々な人たちに導かれて来たようですが、それは意識的にそうしてきたのですか?
小泉先生:意識的かどうかはわかりませんが、一つ意識していたこととすると・・・。
ー 続く。
小泉先生のプロフィール
理学療法士(認定スポーツ理学療法士)
日本スポーツ協会公認アスレティックトレーナー
日本障がい者スポーツ協会公認障がい者スポーツトレーナー
<トレーナー実績>
・2006年 水球ワールドリーグ日本代表チーム
・2012年 ロンドンオリンピック日本選手団
・2013年 水泳世界選手権バルセロナ大会(競泳)
・2015年 水泳世界選手権カザン大会(競泳)
・2016年 リオデジャネイロパラリンピック日本選手団(競泳)
・2019年 パラ水泳世界選手権ロンドン大会
小泉先生が講師を務めるアスレチックトレーナー養成校
小泉先生新著