【稲川利光先生】理学療法士から医者(リハ医)になったワケ

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理学療法士のもつ力は偉大

私は昭和57年(1982年)に九州リハビリテーション大学校を卒業しました。

 

同校の14期生です。卒業して福岡の病院に就職しました。このころ、鹿児島にいた理学療法士の先輩が「福岡県はいいよな、理学療法士が130人もいて。鹿児島県は35人だぜ・・・」と話されたことがありました。

 

当時、全国で理学療法士は2000人に満たなかった時代です。今ではその50倍近く、10万人にもなろうという、一大集団です。学校もたくさん出来ています。

 

障害を持つ人に関わる理学療法士や作業療法士などのセラピストが地域で増えることはとても良いことです。セラピストの関わりは、患者さんやその家族にとても大きな影響を与えます。地域にたくさんのセラピストがいればいるだけ、その地域の患者さんはより多くのセラピストと接します。

 

そこでの良い出会いがあれば、より多くの患者さんの生き方がより良い方向に変わります。

 

セラピストと患者さんとの大切な関わりが、ひとつ、ひとつ、またひとつ・・・と繰り返され、その多くの関わりが集積されれば、それはやがて地域を変えていく力となっていきます。セラピストに秘められた力はとても大きなものです。

 

地域にいる他のセラピストの仲間はもちろん、医療や福祉に関る他のスタッフの力を得ながら、自分の本領を発揮することができれば、お互いにとても良い仕事が展開できることになります。

 

リハビリテーションは障害を通じて、地域をよりよく変えていく実践です。患者さんの人生に深く思いを馳せながら、患者さんやご家族をより良い生活につなげていくことが、セラピストの大切な仕事なのだと思います。

 

地域に何百、何千というセラピストが働く時代ならばこそ、一人ひとりのセラピストが持つ力と責務の大きさを自覚し、地域で力を合わせ、根強く活躍して欲しいものです。

 

どうしようもなかった私の学生時代、そして、リハビリとの出会

私の個人的な話なのですが・・・高校生の時からリハビリに出会うまでの話をします。

 

高校生の時は、ラグビーが好きで、勉強はそっちのけでラグビーばかりやっていました。それからオートバイも好きで、時間があればよく走り廻っていました。

 

当時、祖母に「高校3年間見てきたけど、お前はほんとに勉強のべの字もない。ちょっとは机に向かわんかい。時間があればバイクばかり乗って遊んどる。おばあちゃん、本当に情けない・・・」と言われました。

 

めったなことでは孫を叱らない祖母でしたが、私の高校生活のあり方を見ていて、ほんとに心配でならなかったのだと思います。私の高校は地域の中では進学校でした。

 

なぜそんな私がその高校に入ったかというと、中学校のときに好きだった女の子にちょっとでも振り向いてもらうために勉強を始めたのがきっかけでした(笑)。その流れで勉強を続けて、進学校に進めたという経緯です。

 

高校に進学してもラグビーとオートバイだけの生活です。成績はいつも下の下というところでした。しかし、不思議なことに、ビリにはなったことは一度もありませんでした。

 

卒業時の最終試験でも学年でビリから2番でした。このような状態でしたから、卒業はできたものの、どこの大学にも行けませんでした。「箸にも棒にも引っかかん、というのはお前のような奴のことを言うたい。なんとかせい!」なんて、担任の先生から言われたことがありました。

 

浪人して、1から必死に勉強し直しました。そして、なんとか佐賀大学の理工学部に入学できました。

 

その以前から、両膝が悪くてほとんど歩けなくなった祖父を祖母が介護していましたが、私が佐賀大学に入学した時、祖母は重い心臓病で緊急入院することになりました。

 

そこで、介護が必要な祖父は、病院か施設にお世話にならざるを得なくなりました。私たち家族はリハビリができる病院を急遽探し当て、そこに祖父を入院させました。祖父と祖母の入院後しばらくして、私は佐賀大学を中退し、祖父母の介護を続けました。介護をしながら改めて自宅から通える大学を目指し、再び予備校に通いました。

 

昼間は予備校に通い、夜は祖父母の病院に行って介護をしました。祖父は入院直後より認知症がひどくなりました。祖父が夜中、不穏状態となると、すぐに鎮静剤が打たれ寝かされてしまいます。

 

目が覚めるとまた声を出すので、また鎮静剤が打たれます。「リハビリをしてくれる病院だ」と聞いて、期待して祖父を入院させたのですが、数日のうちに祖父は食事も摂れなくなり、寝たきりのまま過ごすようになりました。

 

リハビリどころか、何もケアされていない、という状況でした。寝かされたままで、うつろな目をして天井を見ている祖父の顔を見ると、戦前、戦中、戦後と怒涛の時代を、日本のために、家族のために生き抜いてきた祖父の人生の最後としては、あまりに可哀想で、辛く耐えがたい気持ちでいっぱいでした。

 

少しでも祖父が落ち着いてくれるように、そして、鎮静剤の注射が少しでも減るように、私と兄と交代で消灯時間まで祖父のベッドの脇にいるようにしました。私や兄が側にいると祖父は落ち着いています。私は祖父の横で英作文や数学の設問を解いていました。

 

そんな日が繰り返される中で、祖父も祖母も徐々に状態が悪くなっていきました。

 

次の年、無事に九州大学の農学部に合格しました。合格通知を祖父母に見せまると、祖母は「こげな状況の中で、お前、よう合格したばい」。と喜んでくれました。祖父は小灯台の引き出しから「メガネを出してくれ」と言い、メガネをけかてあげると、合格通知をじっと見ていました。

 

私が合格通知を見せた数日後、祖母が亡くなりました。そして2週間後に祖父も亡くなりました。祖父の膝は強く拘縮し、曲がったままで伸びませんでした。仙骨部や両膝、両踵などに床ずれもあり、棺桶に入れるのも大変でした。

 

そのとき、「リハビリテーションっていったい何なのだろう」「病院って何なんだろう」と、医療者への不信や不満で耐えがたい気持ちになりました。そして、そんな医療者に頼らざるをえなかった、家族の無力さを辛く感じました。

 

このような事がありながら、私の新たな大学生活が始まりました。

 

せっかく合格できた大学ですが、私の性格から、真面目な大学生活を送ることはできず、アルバイトに明け暮れ、何度も追試受けながらやっと卒業しました。

 

 初めて考えた自分の将来

九州大学の卒業間際に某銀行に就職が決まりました。大学では農業機械を専攻していたのですが、たまたま友人に付き合って受けた銀行の入社試験に受かりました。

 

友人は落ちて、私が受かるという皮肉な結果でした。私は銀行員になりたかったわけではなかったのですが、偶然にそうなった結果をよしとしようと思っていました。

 

そんな時に、兄から「そんな事で将来を決めていいのか?」と言われました。私のことを考えてくれる兄の言葉に、私は「これでいいのかな?」と真剣に考えるようになりました。兄は重度の心身障害児施設で働いていました。兄はその仕事を通じて、私に「理学療法士にならないか」と誘いました。

 

「これからはリハビリテーションの分野が社会的にとても重要になる」と何度も私に話してくれました。私は兄の説明から「リハビリテーションとは、人の障害に関わりながら、その人の障害を改善し、生活をより良いものにしてゆくものであること。

 

そして、その実践を通じてより良い地域づくりを目指すもの」というようなことだと漠然と理解しました。その時、リハビリとは名ばかりで充分なケアも受けずに亡くなった祖父のことが目に浮かびました。

 

銀行員になるか?理学療法士になるか?大いに迷いながら、九州リハビリテーション大学校を受験しました。結果は合格でした。両親は、私が銀行に就職が決まったことをとても喜んでいましたが、私は入社式当日まで、進路に迷っていました。

 

入社式の当日、父も母も、銀行に出向く私を満面の笑顔で見送ってくれました。しかし、その場に及んでも、私はどうしても銀行の入社式に出る決心がつかず、銀行の前にある喫茶店に入り、式の始まるギリギリの時間まで迷っていました。

 

迷いに迷った末、銀行に入行を辞退する電話を入れました。銀行側は非常に戸惑ったようですが、リハビリテーションの学校に行くことを告げて、心からお詫びを言って電話を切りました。

 

そして、そのまま自宅に帰って母に事の次第を報告しました。母は私の話を聞きながら泣き崩れていました。泣き崩れる母を見ると、自分の決心はやはり間違いだったのかと思いました。私は、その迷いを自分で断ち切る思いで、母に「初めて息子がやりたいと決めた事だから、頼むから泣かんといてくれ。息子が一生懸命考えて決めた事やけん」と言いました。

 

それを聞いて、母はじーっと目をつむっていました。そして、一言「そうやね」と納得してくれました。それ以来、母は私の決断に悔やみ事ひとつ言うことはありませんでした。

 

それから、私は九州リハビリテーション大学校に通い始めました。大きな決断をして入学したのですが、これでいいのかという迷いは常にありました。授業の内容には興味はあるものの、臨床を知らない者の漠然としたつかみどころのなさを常に感じていました。

 

一年ほど通った頃に、九州大学の友達や教授に「大学に戻ってこい」と言われて心が揺らぎました。不思議ですね、あんなに悩んで決断した事なのに。しかし、リハビリテーションの学校に入って救いだったのは、私と同じように、大学や就職先を辞めて来た者が同級生や先輩に少なからずいたことです。

 

みんなそれぞれに、いろんな思いを持って入学してきた連中でした。挫折もあり迷いもあり、自分の弱さを経験しながら、それぞれに、自分を見出そうと希望をもって入学してきた人達でした。

 

それなりに仲間意識が芽生えて仲良くなり、とても大切な出会いがあったと思います。それと同時に兄にも随分支えられました。

 

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稲川利光先生経歴

1954年、福岡県生まれ。1979年九州大学農学部卒。同年九州リハビリテーション大学校に入学し、1982年同校卒業後、福岡市内の病院に理学療法士として3年間勤務。

香川医科大学(1993年)  香川医科大学附属病院

NTT伊豆病院診療センタ内科、内科・リハビリテーション科(付)理学療法士免許(1982年)

2005年より現在のNTT東日本関東病院リハビリテーション科部長 就任

≪取得専門医・認定医≫

日本リハビリテーション医学会指導責任者

日本リハビリテーション医学会専門医

日本リハビリテーション医学会臨床認定医

≪著書≫


【バックナンバー】
最終部:医師になる決意
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